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楚(そ)・林士弘(りんしこう)(隋末(ずいまつ))第1代分裂期の王朝

林士弘(りんしこう)

在位 617年1月22日〜622年(4年345日)

姓林(りん)諱士弘(しこう)

林士弘の人物データ

生年
不詳
在位
  • 617年1月22日〜622年
在位 4年345日長さは365名中191位
没年
不詳
死因
不詳365名中33名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
  • 操師乞林士弘と操師乞に血縁はない
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻五十六(林士弘伝)/新唐書 列伝第十二/資治通鑑 巻一九〇
即位経路
旧唐書 巻五十六(林士弘伝)/新唐書 列伝第十二

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

林士弘(りんしこう)は隋末(ずいまつ)に鄱陽(はよう)で起こった群雄で、617年に皇帝を称して国号を楚(そ)とし、一時は北は九江(きゅうこう)から南は番禺(ばんぐう)までを領した。張善安(ぜんあん)や蕭銑(しょうせん)に豫章(よしょう)を奪われて勢力を失い、唐に降伏を請うたのち、再起を図るうちに死んだ。

即位まで

林士弘(りんしこう)は饒州(じょうしゅう)鄱陽(はよう)の人で、616年に同郷の操師乞(そうしきつ)とともに群盗となり、豫章郡(よしょうぐん)に拠った操師乞(そうしきつ)の大将軍(だいしょうぐん)となった。隋(ずい)の劉(りゅう)子翊(しよく)との戦いで操師乞(そうしきつ)が矢に当たって死ぬと、林士弘(りんしこう)がその衆を率いて彭蠡湖(ほうれいこ)で劉(りゅう)子翊(しよく)を破り、兵は十余万に達した。林士弘(りんしこう)は皇帝を称して国号を楚(そ)、元号を太平とした。称帝(しょうてい)の時期を隋書(ずいしょ)と資治通鑑(しじつがん)は617年の初めとし、新唐書(しんとうじょ)は称帝(しょうてい)の前にまず南越王(なんえつおう)を名乗った段階を置く。首謀者の名を隋書(ずいしょ)は操天成(てんせい)とし、その元号を資治通鑑(しじつがん)は始興(しこう)、新唐書(しんとうじょ)は天成(てんせい)と記す。

治世と最期

林士弘(りんしこう)は臨川(りんせん)・廬陵(ろりょう)・南康(なんこう)などの諸郡を陥れた。豫章(よしょう)を奪ったのを、旧唐書(くとうじょ)の林士弘(りんしこう)伝は党の張善安(ぜんあん)とし、資治通鑑(しじつがん)と新唐書(しんとうじょ)は蕭銑(しょうせん)の軍とする。林士弘(りんしこう)には南昌(なんしょう)・虔(けん)・循・潮の数州だけが残った。621年に蕭銑(しょうせん)が敗れると、その散兵が林士弘(りんしこう)のもとへ帰して勢いを盛り返したが、李孝恭(りこうきょう)の招慰(しょうい)で循・潮の二州は唐に降った。622年、林士弘(りんしこう)は弟の林薬師(やくし)に循州(じゅんしゅう)を囲ませたが大破され、安成(あんせい)の山洞に潜んだ。新唐書(しんとうじょ)と資治通鑑(しじつがん)によれば、林士弘(りんしこう)は唐に降伏を請うたのち、山洞に逃れて再起を図った。これを討つ兵を出したのを旧唐書(くとうじょ)と新唐書(しんとうじょ)は張善安(ぜんあん)とし、資治通鑑(しじつがん)は洪州総管(こうしゅうそうかん)の若干(じゃっかん)則とするが、どの書も林士弘(りんしこう)がたまたま死んで衆が散じたとだけ記す。その死因や日付は、旧唐書(くとうじょ)・新唐書(しんとうじょ)の林士弘(りんしこう)伝や資治通鑑(しじつがん)などのいずれにも無い。

在位中の出来事(2件)

改元617年1月22日元号を「太平」とする
被反乱日付不詳張善安の離反・豫章襲撃

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