
唐第1代統一王朝
高祖李淵
在位 618年6月18日〜626年9月3日(8年79日)
高祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)
- 即位経路
- 旧唐書 巻一 本紀第一(高祖)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李淵は唐の初代皇帝で、617年に太原で兵を挙げて長安に入り、翌618年に隋の恭帝から位を譲られて唐を建てた。626年の玄武門の変で次男の李世民が皇太子らを殺すと、李世民を皇太子とし、まもなく位を譲って太上皇となった。
即位まで
李淵は566年に長安で生まれ、幼くして唐国公を継いだ。隋の文帝の独孤皇后は母の姉妹で、そのため特に目をかけられて諸州の刺史を歴任した。617年に太原留守となった李淵の挙兵を誰が言い出したかは書によって違う。旧唐書は李世民と劉文静が謀ったとする。新唐書は、事を知らない李淵に裴寂が告げ、李淵ははじめ拒むふりをしたのちに許したとする。唐創業起居注は、李淵自身が挙兵を望んでいたと描く。資治通鑑考異は、起居注が李淵自身に挙兵の意図を語らせる場面を事情に合わないとして採らない。突厥への書を李淵が自ら書いたとする記事も、功を李淵に帰そうとしたものとして退けている。李淵は副留守の王威らを斬って兵を挙げ、太原を発って霍邑で宋老生を斬り、長安を攻め落とした。代王楊侑を天子に立てて煬帝を太上皇に遥尊し、自らは大丞相・唐王となった。618年、恭帝の譲位の詔を辞退したのち受け、太極殿で即位して大赦し、武徳と改元した。
治世と最期
621年、李世民が武牢で竇建徳を捕らえ、王世充が東都をもって降り、河北と河南が平定された。626年、李世民は皇太子李建成と斉王李元吉が自分を害そうとしたとして二人を誅し、詔で皇太子に立てられた。資治通鑑によれば、変の際に李淵は海池で舟遊びをしており、甲冑姿の尉遅敬徳に変を知らされ、蕭瑀と陳叔達が秦王を太子とするよう勧めると、これは自分の宿願だと答えたが、旧唐書の本紀にこの場面は無い。同じ年、李淵は李世民に位を伝えて太上皇となった。635年、李淵は太安宮の垂拱前殿で崩じ、資治通鑑は前年の秋から風疾を患っていたとする。崩じた年齢を新唐書は旧唐書より一つ多く記す。
在位中の出来事(12件)
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唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑