
唐第15代統一王朝
穆宗李恒
在位 820年2月20日〜824年2月25日(4年6日)
姓李諱恒
穆宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 本紀第十六(穆宗)/資治通鑑 巻243(唐紀59・長慶四年)
- 即位経路
- 旧唐書 本紀第十六(穆宗)/資治通鑑 巻241(唐紀57・元和十五年)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
父の憲宗が宦官に殺されたとされる中で立てられ、河北の藩鎮を再び失い、撃鞠中の発作で倒れたのちに病が再発して没した唐の皇帝である。
即位まで
憲宗の第三子で、812年に皇太子となった。新唐書によれば、宦官の吐突承璀は澧王惲を立てようとしたが、惲の母が賤しかったため遂王が皇太子になった。820年に憲宗が中和殿で急死すると、旧唐書の本紀は宦官の陳弘志が殺したと皆が言ったが史官は書かなかったと記し、新唐書の本紀は陳弘志らが反したと地の文で書く。資治通鑑によれば、宦官らは服薬による急死だとだけ告げ、太子を立てて吐突承璀と澧王を殺した。同じ年、太極殿で即位した。
治世と最期
即位した年から三日に一度は神策軍や宮門へ出向いて、角抵や雑戯を見物した。821年、幽州の兵が節度使の張弘靖を閉じ込めて朱克融を立て、鎮州の兵は節度使田弘正と家族・将佐三百余人を殺した。822年には魏博で史憲誠が兵権を奪い、節度使の田布が自刃した。朝廷がこの三人にみな節鉞を授けたことを、資治通鑑は再び河朔を失い唐の滅亡まで取り戻せなかったとまとめる。823年の初め、宦官と撃鞠をしていて一人が落馬したのに驚き、足が地を踏めなくなって床に就いた。いったんは平癒した。824年には金石の薬を服し、張皋が上疏して切に諫めた。同じ年、病が再発し、皇太子に監国を命じて没した。死を丹薬と結びつける記述は、旧唐書・新唐書の本紀にも資治通鑑にも無い。
在位中の出来事(11件)
大赦820年3月22日宪宗の貴妃郭氏を皇太后に尊立した礼に伴う大赦。
被反乱820年7月安南府反乱(楊清の乱)
改元821年元号を「長慶」とする
大赦821年
大赦821年
被反乱821年幽州(盧龍)軍乱・硃克融の乱
被反乱821年〜822年鎮州(成徳)軍乱・王廷凑の乱
被反乱821年相州軍乱
被反乱822年汴州(宣武)軍乱・李翙の乱
被反乱822年浙西大将王国清の乱
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被反乱822年徳州軍乱
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑