
唐第21代統一王朝
僖宗李儇
在位 873年8月16日〜888年4月20日(14年251日)
姓李諱儇
僖宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻十九下(僖宗)
- 即位経路
- 旧唐書 巻十九下(僖宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
幼くして位を継いで政事を宦官に委ね、黄巣に長安を落とされて成都へ逃れ、戻ってからも再び都を追われた唐の皇帝である。
即位まで
懿宗の第五子で、母は王氏であり、862年に生まれた。旧唐書の本紀は、懿宗が危篤のとき制を下して普王を皇太子に立てたと書く。新唐書の本紀と資治通鑑は、神策軍の中尉の劉行深と韓文約が普王を立てたと書く。資治通鑑の考異は、韓中尉が年長の者を殺して幼い者を立てたという話を伝え、新旧の唐書は諸子の長幼も殺された王の名も載せないと記す。873年、懿宗の柩の前で即位した。
治世と最期
資治通鑑によれば、遊びにふけって政事を宦官の田令孜に委ね、阿父と呼んだ。資治通鑑によれば、僖宗は田令孜が節度使に推した4人に撃球をさせ、一位の陳敬瑄を西川節度使にした。881年、黄巣の軍が迫ると、僖宗は諸王や妃ら数百騎で長安を抜け出し、百官はそれを知らなかった。黄巣は長安の宮中に入って国号を大斉とし、僖宗は成都に至って中和と改元した。884年に黄巣は部将に首を斬られた。885年に長安へ戻ったが、諸侯は兵と税を私して朝廷は抑えられなかった。田令孜が河中の塩池の利を取り上げようとして王重栄と争い、886年に沙陀の兵が迫ると、田令孜は僖宗を連れて鳳翔へ逃れた。同じ年、朱玫らは嗣襄王李熅を皇帝に立てた。888年に長安へ戻ったが急病となり、弟の寿王を皇太弟に立てた夜に武徳殿で没した。旧唐書の史臣は、田令孜の誤った計がほとんど国を失わせたと評する。
在位中の出来事(16件)
改元874年元号を「乾符」とする
大赦874年
被反乱875年〜878年王仙芝の乱
被反乱877年〜884年黄巣の乱(大斉樹立、長安陥落・僖宗の成都播遷を招く)
被反乱877年〜880年沙陀(大同軍)李国昌父子の抗命
改元880年元号を「広明」とする
改元881年元号を「中和」とする
大赦881年
改元885年元号を「光啓」とする
大赦885年
残り6件を表示
大赦885年
被反乱885年秦宗権の乱(蔡州)
被反乱886年硃玫の乱(襄王煴擁立事件)
被反乱887年李昌符の乱(鳳翔)
改元888年4月5日元号を「文徳」とする
大赦888年4月5日
唐の歴代皇帝
24名の一覧- 第1代高祖618–626年病死
- 第2代太宗626–649年諸説あり
- 第3代高宗649–683年病死
- 第4・6代中宗684年 / 705–710年暗殺
- 第5・8代睿宗684–690年 / 710–712年病死
- 第7代殤帝710年不詳
- 第9代玄宗712–756年病死
- 第10代粛宗756–762年病死
- 第11代代宗762–779年病死
- 第12代徳宗779–805年病死
- 第13代順宗805年病死
- 第14代憲宗805–820年暗殺
- 第15代穆宗820–824年病死
- 第16代敬宗824–827年暗殺
- 第17代文宗827–840年病死
- 第18代武宗840–846年病死
- 第19代宣宗846–859年病死
- 第20代懿宗859–873年病死
- 第21代僖宗873–888年病死
- 第22・23代昭宗888–900年 / 901–904年暗殺
- 第24代哀帝904–907年暗殺
- 李裕900–901年暗殺
- 李承宏763年不詳
- 襄王李熅886–887年処刑