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黄巣の肖像

斉(せい)・唐(とう)第1代分裂期の王朝

黄巣(こうそう)

在位 881年1月16日〜884年7月13日(3年179日)

姓黄(こう)諱巣(そう)別称承天応運啓聖睿文宣武皇帝(しょうてんおううんけいせいえいぶんせんぶこうてい)

黄巣の人物データ

生年
不詳
在位
  • 881年1月16日〜884年7月13日
在位 3年179日長さは365名中215位
没年
884年7月13日
死因
自尽非業の死・365名中14名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
新唐書 巻二百二十五下(逆臣下・黄巣伝)
即位経路
旧唐書 巻二百下

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

黄巣(こうそう)は曹州(そうしゅう)冤句(えんく)の人で、もとは塩を売って暮らしていた。唐末の大乱を率いて長安(ちょうあん)に入り、大斉(だいせい)を建てて帝を称したが、官軍に追われて東へ逃れ、884年に狼虎谷(ろうここく)で死んだ。

即位まで

乾符(けんぷ)年間に凶作が続いて飢えた民が盗となり、同郷の王仙芝(せんし)・尚君長らが濮陽(ぼくよう)で蜂起した。尚君長が斬られたのち、黄巣(こうそう)は兄弟八人と数千人を率いてその弟の尚讓(じょう)に身を寄せ、尚讓(じょう)らに推されて王となり冲天大将軍(ちゅうてんだいしょうぐん)と号した。南の広州(こうしゅう)一帯を拠り所として節度使(せつどし)の地位を求めたが許されず、五嶺(ごれい)を越えて北上し、880年に洛陽(らくよう)を陥れた。官軍が潼関(どうかん)だけを守って禁谷(きんこく)を防がなかったため、前鋒(ぜんぽう)が禁谷(きんこく)から入って潼関(どうかん)を挟み撃ちにし、官軍は崩れた。僖宗(きそう)が夜に長安(ちょうあん)を逃れ出たのち、黄巣(こうそう)は881年に都に入り、含元殿(がんげんでん)で即位して国号を大斉(だいせい)、年号を金統(きんとう)とし、妻の曹氏(そうし)を皇后とした。

治世と最期

官軍が一時長安(ちょうあん)に入ると、これを迎えた市中の民に怒った黄巣(こうそう)軍は、丁壮の男子をほとんど殺した。883年、李克用(りこくよう)らに渭南(いなん)で大敗すると、黄巣(こうそう)は藍田(らんでん)から関東(かんとう)へ逃れ、官軍が長安(ちょうあん)を取り戻した。寵将(ちょうしょう)の孟(もう)楷が陳州(ちんしゅう)で斬られると、黄巣(こうそう)は全軍で陳州(ちんしゅう)を百日囲んだ。884年、大雨で陣が崩れて軍が離散し、李克用(りこくよう)に汴州(べんしゅう)で敗れて部将の降伏が相次いだ。泰山に入って追われた黄巣(こうそう)は、狼虎谷(ろうここく)で甥(おい)の林言に兄弟とともに首を斬られた。旧唐書(くとうじょ)と資治通鑑(しじつがん)は林言が斬ったとだけ記し、新唐書(しんとうじょ)の黄巣(こうそう)伝は、黄巣(こうそう)が自分の首を天子に献じよと言い、林言がためらうと自ら首を刎(は)ねたが死にきれず、林言が斬ったとする。資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は自刎(じふん)とする続宝運録(ぞくほううんろく)と諸書を並べて新唐書(しんとうじょ)の伝に従うとするが、資治通鑑(しじつがん)の本文は自刎(じふん)を書かない。表の死因は、新唐書(しんとうじょ)の伝の記述によって自尽としている。

在位中の出来事(4件)

改元881年1月16日元号を「金統」とする
大赦881年1月16日広明元年十二月十三日(壬辰)、長安含元殿での即位と同日に大赦を宣言。
立后881年1月16日即位(広明元年十二月十三日)に伴い妻の曹氏を皇后に立てた。
親征883年〜884年陳州(趙犨)包囲戦・対唐朝諸侯連合軍

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