
隋第1代統一王朝
文帝楊堅
在位 581年3月4日〜604年8月13日(23年168日)
姓楊諱堅幼名那羅延廟号高祖
文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 隋書 帝紀二(高祖下)/隋書 列伝十三(楊素伝)/資治通鑑 巻一八〇(隋紀四)
- 即位経路
- 隋書 帝紀一(高祖上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
北周から位を譲り受けて隋を建て、589年に陳を滅ぼして、西晋の末から三百年近く分かれていた中国を一つにした皇帝である。
即位まで
北周の隋国公楊忠の子である。娘が宣帝の皇后となって文帝は重く用いられたが、宣帝には疎まれ、顔色が変わったら殺せと命じられた場でも平然としていて助かった。580年に宣帝が没すると、鄭訳・劉昉が詔を偽って文帝を朝政に引き入れ、文帝は内外の軍を束ねた。尉遅迥らの挙兵を鎮めたのち、581年に幼い静帝から位を譲られた。
治世と最期
582年、漢以来の長安城が荒れていたため、龍首山のふもとに新しい都の大興城を造らせた。隋書の本紀の総評は、税を軽くし刑を緩め、自らは倹約に努めたと書き、猜疑心が強く功臣を殺し、晩年は法が厳しすぎたとも書く。600年に皇太子の楊勇を庶人に落とし、晋王楊広(煬帝)を皇太子とした。604年に仁寿宮で病み、百官に別れを告げて没した。本紀は病死として書き、死の前後の事情は列伝に出てくる。隋書の后妃伝によれば、病床の文帝は皇太子が宣華夫人陳氏に迫ったと聞いて怒り、廃した楊勇を呼び戻そうとした。楊素がそれを皇太子に知らせ、皇太子は張衡を寝殿に入れて夫人らを別室に出し、まもなく文帝の死が伝えられた。楊素伝は、この日に文帝が没したので異論が多く出たと記す。大業略記は張衡が毒を進めたとし、総通暦は張衡が文帝を手にかけたとするが、資治通鑑の司馬光はどちらも採らず、隋書に従った。
在位中の出来事(22件)
改元581年3月4日元号を「開皇」とする
大赦581年3月4日
立后581年3月6日
大赦581年5月20日
大赦583年
大赦583年
遷都583年長安城(漢長安故城/隋建国当初の都) → 大興城(新都、後の唐長安城)
大赦586年
大赦589年
被反乱590年開皇十年江南遺民反乱
残り12件を表示
大赦595年
大赦595年
被反乱597年桂州の賊李光仕の乱
被反乱597年桂州人李代賢の乱
大赦599年
皇太子廃立600年
被反乱600年熙州人李英林の乱
改元601年元号を「仁寿」とする
大赦601年
被反乱602年交州人李仏子の乱
大赦604年2月24日
大赦604年6月27日
隋の歴代皇帝
5名の一覧- 第1代文帝581–604年諸説あり
- 第2代煬帝604–618年暗殺
- 第3代恭帝侑617–618年不詳
- 恭帝侗618–619年暗殺
- 秦王楊浩618年暗殺
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