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文帝の肖像

隋(ずい)第1代統一王朝

文帝(ぶんてい)楊堅(ようけん)

在位 581年3月4日〜604年8月13日(23年168日)

姓楊(よう)諱堅(けん)幼名那羅延(ならえん)廟号高祖(こうそ)

文帝の人物データ

生年
541年7月21日
在位
  • 581年3月4日〜604年8月13日
在位 23年168日41歳で即位(数え年)・長さは365名中45位
没年
604年8月13日64歳(数え年)267名中長寿順26位タイ
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 静帝北周文帝は静帝の外戚
次代
  • 煬帝隋煬帝は文帝の子
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
隋書 帝紀二(高祖下)/隋書 列伝十三(楊素伝)/資治通鑑 巻一八〇(隋紀四)
即位経路
隋書 帝紀一(高祖上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

北周(ほくしゅう)から位を譲り受けて隋(ずい)を建て、589年に陳を滅ぼして、西晋(せいしん)の末から三百年近く分かれていた中国(ちゅうごく)を一つにした皇帝である。

即位まで

北周(ほくしゅう)の隋国公(ずいこくこう)楊忠(ようちゅう)の子である。娘が宣帝(せんてい)の皇后となって文帝(ぶんてい)は重く用いられたが、宣帝(せんてい)には疎まれ、顔色が変わったら殺せと命じられた場でも平然としていて助かった。580年に宣帝(せんてい)が没すると、鄭訳(ていやく)・劉昉(りゅうぼう)が詔を偽って文帝(ぶんてい)を朝政に引き入れ、文帝(ぶんてい)は内外の軍を束ねた。尉遅迥(うっちけい)らの挙兵を鎮めたのち、581年に幼い静帝(せいてい)から位を譲られた。

治世と最期

582年、漢以来の長安城(ちょうあんじょう)が荒れていたため、龍首山(りゅうしゅざん)のふもとに新しい都の大興城(だいこうじょう)を造らせた。隋書(ずいしょ)の本紀(ほんぎ)の総評は、税を軽くし刑を緩め、自らは倹約に努めたと書き、猜疑心(さいぎしん)が強く功臣を殺し、晩年は法が厳しすぎたとも書く。600年に皇太子の楊(よう)勇を庶人(しょじん)に落とし、晋王(しんおう)楊(よう)広(こう)(煬帝(ようだい))を皇太子とした。604年に仁寿宮(じんじゅきゅう)で病み、百官に別れを告げて没した。本紀(ほんぎ)は病死として書き、死の前後の事情は列伝(れつでん)に出てくる。隋書(ずいしょ)の后妃伝(こうひでん)によれば、病床の文帝(ぶんてい)は皇太子が宣華夫人(せんかふじん)陳氏(ちんし)に迫ったと聞いて怒り、廃した楊(よう)勇を呼び戻そうとした。楊素(ようそ)がそれを皇太子に知らせ、皇太子は張衡を寝殿に入れて夫人らを別室に出し、まもなく文帝(ぶんてい)の死が伝えられた。楊素(ようそ)伝は、この日に文帝(ぶんてい)が没したので異論が多く出たと記す。大業(たいぎょう)略記(りゃっき)は張衡が毒を進めたとし、総通暦(そうつうれき)は張衡が文帝(ぶんてい)を手にかけたとするが、資治通鑑(しじつがん)の司馬(しば)光はどちらも採らず、隋書(ずいしょ)に従った。

在位中の出来事(22件)

改元581年3月4日元号を「開皇」とする
大赦581年3月4日
立后581年3月6日
大赦581年5月20日
大赦583年
大赦583年
遷都583年長安城(漢長安故城/隋建国当初の都) → 大興城(新都、後の唐長安城)
大赦586年
大赦589年
被反乱590年開皇十年江南遺民反乱
残り12件を表示
大赦595年
大赦595年
被反乱597年桂州の賊李光仕の乱
被反乱597年桂州人李代賢の乱
大赦599年
皇太子廃立600年
被反乱600年熙州人李英林の乱
改元601年元号を「仁寿」とする
大赦601年
被反乱602年交州人李仏子の乱
大赦604年2月24日
大赦604年6月27日

隋の歴代皇帝

5名の一覧

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