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恵帝の肖像

西晋(せいしん)第2・4代統一王朝

恵帝(けいてい)司馬(しば)衷(ちゅう)

在位 290–301年 / 301–307年(16年125日)

姓司馬(しば)諱衷(ちゅう)字正度(せいど)

恵帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1度目290年5月16日〜301年2月3日
  • 復位301年5月30日〜307年1月8日
在位 16年125日32歳で即位(数え年)・長さは365名中74位
没年
307年1月8日48歳(数え年)267名中長寿順88位タイ
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
世襲のちに復位
先代
次代
目立つ記録
  • 改元11回(327名中3位タイ)
  • 大赦23回(270名中3位)
  • 立后5回(202名中2位タイ)
  • 皇太子廃立4回(27名中1位)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第四 孝惠帝
即位経路
晉書 帝紀第四 孝惠帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

即位の前から政務の力を疑われ、在位中は皇后の賈氏(かし)と一族の諸王が争って八王(はちおう)の乱を招いた西晋(せいしん)の皇帝である。

即位まで

武帝(ぶてい)の第二子で、9歳で皇太子に立てられた。武帝(ぶてい)が試しに東宮(とうぐう)へ尚書の案件を決裁させたとき、太子は答えられず、妃の賈氏(かし)が代わりに答案を整えて地位を保ったと晋書(しんじょ)は伝える。290年に武帝(ぶてい)が没したその日に即位し、賈(か)妃を皇后とした。

治世と最期

翌年に太傅(たいふ)の楊(よう)駿(しゅん)が誅(ちゅう)されると、賈(か)后は詔を偽って皇太后を廃し、楚王(そおう)瑋(い)に汝南王(じょなんおう)亮(りょう)と衛瓘(えいかん)を殺させた。皇太子(こうたいし)遹(いつ)が廃されると、賈(か)后は詔を偽って遹(いつ)を殺したが、まもなく趙王(ちょうおう)倫らに廃された。301年には趙王(ちょうおう)倫が帝位を奪って恵帝(けいてい)を太上皇(たいじょうこう)とし、斉王(せいおう)冏(けい)らの挙兵で倫の党が斬られると、恵帝(けいてい)は同じ年のうちに位に戻った。304年、成都王(せいとおう)穎(えい)を討とうと自ら出陣して蕩陰(とういん)で敗れ、頬(ほお)を傷つけ矢を受けて玉璽(ぎょくじ)を失い、同じ年に張方に長安(ちょうあん)へ連れ去られた。飢えた民について、なぜ肉粥(にくがゆ)を食べないのかと言った話を、晋書(しんじょ)は恵帝(けいてい)の暗さの例として載せる。306年、東海王(とうかいおう)越の軍が河間王(かかんおう)顒(ぎょう)を破って洛陽(らくよう)に戻ったが、翌307年の初めに顕陽殿(けんようでん)で没した。晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)は、日々の記事では崩御(ほうぎょ)の日と場所だけを記し、巻末のまとめで、餅を食べて中毒したとし、越が毒を盛ったともいう、と併せて書く。資治通鑑(しじつがん)は餅による中毒だけを書き、越の毒殺説は元の胡(こ)三省(さんせい)の注に出てくる。

在位中の出来事(55件)

改元290年5月16日元号を「永熙」とする
大赦290年5月16日武帝崩御当日、皇太子即位に伴い大赦(改元も同時)。
立后290年5月16日武帝崩御・恵帝即位と同日に、妃賈氏を皇后に冊立。
改元291年元号を「永平」とする
改元291年元号を「元康」とする
大赦291年太傅楊駿誅殺後、大赦(改元も同時、元康に改元)。
大赦292年大赦。
被反乱294年郝散の乱
大赦296年
被反乱296年〜299年元康氐羌の乱(度元・斉万年の乱)
残り45件を表示
大赦298年大赦。
被反乱299年鄴の妖言蜂起
改元300年元号を「永康」とする
大赦300年大赦(改元も同時、永康に改元)。
大赦300年趙王倫が矯詔(偽の詔)により大赦を行い自ら相国となる。
大赦300年皇后羊氏冊立に伴い大赦、大酺三日。
立后300年賈皇后が同年4月に廃后・誅殺された後、羊氏を皇后に冊立。
皇太子廃立300年皇太子遹(実子、広陵王として立てられていた)を廃して庶人とし、その三子も金墉城に幽閉。
被反乱300年〜301年趙廞の反乱
改元301年6月1日元号を「永寧」とする
大赦301年6月1日趙王倫簒位を齊王冏らが討ち恵帝復位(辛酉/4月7日)の直後に大赦(改元も同時、永寧に改元)。
大赦301年8月5日大赦、吏位を二等進める。
大赦301年10月
被反乱301年12月李特・李雄の蜀反乱(成漢建国)
改元302年元号を「太安」とする
大赦302年齊王冏誅殺後に大赦(改元も同時、太安に改元)。
大赦303年牽秀を撃破し進軍した際に大赦。
被反乱303年〜304年張昌の乱
改元304年元号を「永安」とする
改元304年元号を「建武」とする
改元304年帝が張方により長安へ連行される中、洛陽に残された留台が改元(永安に復す)。
大赦304年東海王越が長沙王乂を捕える直後に大赦。
大赦304年成都王穎の進言により大赦(改元も同時、永安に改元)。
大赦304年成都王穎を皇太弟とする詔に伴い大赦、鰥寡高年に帛を賜う。
大赦304年大赦、皇后羊氏及び皇太子覃を復位。
大赦304年蕩陰の戦い後、鄴到着直後に大赦(改元も同時、建武に改元)。
大赦304年張方に迎えられた際に大赦、従者に恩賞。
大赦304年洛陽の留台による大赦(改元も同時、永安に復す)。
立后304年同年2月に廃后されていた羊皇后を復位(再冊立)。
立后304年留台による大赦・改元(丙午)の後、辛丑に羊皇后を再度復位(再冊立)。
皇太子廃立304年成都王穎の圧力下、皇太子覃(清河王遐の子)を廃し清河王に戻す。
皇太子廃立304年張方が洛陽に再入城し、7月に復位したばかりの皇太子覃を再度廃する。
親征304年成都王穎(蕩陰の戦い)
被反乱304年〜306年恵帝長安拉致・幽閉事件
被反乱304年劉元海(前趙)の反乱
改元305年元号を「永興」とする
大赦305年詔により大赦(改元も同時、永興に改元)。
大赦305年大赦。
皇太子廃立305年
被反乱305年公師籓の乱
改元306年元号を「光熙」とする
大赦306年長安から洛陽に帰還後、大赦(改元も同時、光熙に改元)。
立后306年長安から洛陽帰還後、羊皇后を復位(再冊立)。
被反乱306年劉柏根の乱
被反乱306年陳敏の反乱

西晋の歴代皇帝

5名の一覧

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