
西晋第1代統一王朝
武帝司馬炎
在位 266年2月8日〜290年5月16日(24年103日)
姓司馬諱炎字安世廟号世祖
武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 帝紀第三 世祖武帝
- 即位経路
- 晉書 帝紀第三 世祖武帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
魏から禅りを受けて西晋を開き、呉を滅ぼして天下を一つにしたが、不慧の太子を廃さずに後を託した皇帝である。
即位まで
司馬昭の長子で、字を安世という。司馬昭は炎の弟の攸を早世した兄司馬師の後嗣にしており、世子を立てるときも攸に心を寄せたが、何曾らが強く争って炎に決まった。265年に晋王太子となり、同じ年に司馬昭が没すると晋王を継いだ。魏の天子が位を譲ると、初めは辞退したが何曾らが固く請うたので受け、266年の初めに南郊で禅りを受けて改元した。魏帝は陳留王とされた。
治世と最期
魏の皇室が孤立していた弊を戒めとして、宗室を多く王に封じて職任を与えた。267年に皇子の衷を皇太子に立てた。二十余万の兵を東西から進めて呉を伐ち、280年に王濬の水軍が石頭に至ると孫晧は降った。これで州4・郡43・県313を得た。晋書の本紀は末尾の評で、呉を平らげたのち武帝は政務を怠り、遊宴にふけって皇后の一族を寵愛したと記す。衛瓘は酔ったふりをして武帝の座を撫で、此の座惜しむべしと太子の廃位をほのめかした。資治通鑑によれば、武帝は太子が後継に堪えないことを恐れて最初の皇后の楊氏に相談したが、長子を立てるもので動かせないと言われた。同じ評によれば、皇孫の聡明さを恃んで廃立の心を持たなかった。病が重くなると汝南王亮に輔政させる詔が出たが、楊駿がこれを伏せ、楊駿の娘で後の皇后となっていた楊氏が駿を輔政とする詔を作り、評は中朝の乱がここに始まったとする。290年に含章殿で没し、廟号は世祖とされた。
在位中の出来事(23件)
改元266年2月8日元号を「泰始」とする
大赦266年2月8日
立后266年3月20日
大赦268年
被反乱270年〜279年樹機能(河西鮮卑・秦涼諸胡)の乱
被反乱271年〜272年匈奴帥劉猛の離反
大赦272年
被反乱272年益州牙門張弘の刺史殺害・謀反
改元275年元号を「咸寧」とする
大赦275年
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被反乱275年西域叛鮮卑の反乱
大赦276年
立后276年
被反乱277年呉故将莞恭・帛奉の挙兵
改元280年元号を「太康」とする
大赦280年
大赦285年
被反乱287年南康の李豊の反乱
被反乱287年海安の蕭輔の反乱
被反乱287年呉興の蔣迪の反乱
大赦289年
改元290年1月28日元号を「太熙」とする
大赦日付不詳
西晋の歴代皇帝
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