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武帝の肖像

西晋(せいしん)第1代統一王朝

武帝(ぶてい)司馬炎(しばえん)

在位 266年2月8日〜290年5月16日(24年103日)

姓司馬(しば)諱炎(えん)字安世(あんせい)廟号世祖(せいそ)

武帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 266年2月8日〜290年5月16日
在位 24年103日長さは365名中40位
没年
290年5月16日55歳(数え年)267名中長寿順56位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 元帝魏武帝と元帝に血縁はない
次代
  • 恵帝西晋恵帝は武帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第三 世祖武帝
即位経路
晉書 帝紀第三 世祖武帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

魏(ぎ)から禅りを受けて西晋(せいしん)を開き、呉を滅ぼして天下を一つにしたが、不慧(ふけい)の太子を廃さずに後を託した皇帝である。

即位まで

司馬昭(しばしょう)の長子で、字を安世(あんせい)という。司馬昭(しばしょう)は炎の弟の攸(ゆう)を早世した兄司馬師(しばし)の後嗣にしており、世子を立てるときも攸(ゆう)に心を寄せたが、何曾(そう)らが強く争って炎に決まった。265年に晋王(しんおう)太子(たいし)となり、同じ年に司馬昭(しばしょう)が没すると晋王(しんおう)を継いだ。魏(ぎ)の天子が位を譲ると、初めは辞退したが何曾(そう)らが固く請うたので受け、266年の初めに南郊で禅りを受けて改元(かいげん)した。魏帝(ぎてい)は陳留王(ちんりゅうおう)とされた。

治世と最期

魏(ぎ)の皇室が孤立していた弊を戒めとして、宗室(そうしつ)を多く王に封じて職任を与えた。267年に皇子の衷を皇太子に立てた。二十余万の兵を東西から進めて呉を伐ち、280年に王濬(しゅん)の水軍が石頭に至ると孫(そん)晧(こう)は降った。これで州4・郡43・県313を得た。晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)は末尾の評で、呉を平らげたのち武帝(ぶてい)は政務を怠り、遊宴にふけって皇后の一族を寵愛(ちょうあい)したと記す。衛瓘(えいかん)は酔ったふりをして武帝(ぶてい)の座を撫で、此(こ)の座惜しむべしと太子の廃位をほのめかした。資治通鑑(しじつがん)によれば、武帝(ぶてい)は太子が後継に堪えないことを恐れて最初の皇后の楊氏(ようし)に相談したが、長子を立てるもので動かせないと言われた。同じ評によれば、皇孫の聡明(そうめい)さを恃(たの)んで廃立の心を持たなかった。病が重くなると汝南王(じょなんおう)亮(りょう)に輔政(ほせい)させる詔が出たが、楊(よう)駿(しゅん)がこれを伏せ、楊(よう)駿(しゅん)の娘で後の皇后となっていた楊氏(ようし)が駿(しゅん)を輔政(ほせい)とする詔を作り、評は中朝(ちゅうちょう)の乱がここに始まったとする。290年に含章殿(がんしょうでん)で没し、廟号(びょうごう)は世祖(せいそ)とされた。

在位中の出来事(23件)

改元266年2月8日元号を「泰始」とする
大赦266年2月8日
立后266年3月20日
大赦268年
被反乱270年〜279年樹機能(河西鮮卑・秦涼諸胡)の乱
被反乱271年〜272年匈奴帥劉猛の離反
大赦272年
被反乱272年益州牙門張弘の刺史殺害・謀反
改元275年元号を「咸寧」とする
大赦275年
残り13件を表示
被反乱275年西域叛鮮卑の反乱
大赦276年
立后276年
被反乱277年呉故将莞恭・帛奉の挙兵
改元280年元号を「太康」とする
大赦280年
大赦285年
被反乱287年南康の李豊の反乱
被反乱287年海安の蕭輔の反乱
被反乱287年呉興の蔣迪の反乱
大赦289年
改元290年1月28日元号を「太熙」とする
大赦日付不詳

西晋の歴代皇帝

5名の一覧

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