本文へスキップ
元帝の肖像

東晋(とうしん)第1代分裂期の王朝

元帝(げんてい)司馬(しば)睿(えい)

在位 318年4月26日〜323年1月3日(4年253日)

姓司馬(しば)諱睿(えい)字景文(けいぶん)廟号中宗(ちゅうそう)

元帝の人物データ

生年
276年
在位
  • 318年4月26日〜323年1月3日
在位 4年253日43歳で即位(数え年)・長さは365名中194位
没年
323年1月3日47歳(数え年)267名中長寿順92位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 明帝東晋明帝は元帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第六 中宗元帝
即位経路
晉書 帝紀第六 中宗元帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

西晋(せいしん)が滅びかけるなか江南(こうなん)の建康(けんこう)で晋(しん)を立て直し、東晋(とうしん)の最初の皇帝となった人物である。

即位まで

司馬懿(しばい)の曾孫(そうそん)で、琅邪王(ろうやおう)の位を15歳で継いだ。恵帝(けいてい)の時代の王族の争いでは控えめにふるまって難を逃れ、叔父の東安王(とうあんおう)繇(よう)が殺されると成都王(せいとおう)穎(えい)のもとを逃れて洛陽(らくよう)に戻り、母を伴って琅邪国(ろうやこく)へ帰った。永嘉(えいか)年間の初めに王導の策で建鄴(けんぎょう)に移り、王敦(とん)と王導を腹心として江東(こうとう)の人心を集めた。317年に晋王(しんおう)となり、翌年、愍帝(びんてい)が平陽(へいよう)で殺されたという知らせを受けて皇帝に即いた。

治世と最期

晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)は、元帝(げんてい)が倹約を好み直言を受け入れたとし、王導に諫(いさ)められて酒を断った話を載せる。322年、大将軍(だいしょうぐん)の王敦(とん)が劉(りゅう)隗(かい)を討つと称して武昌(ぶしょう)で兵を挙げた。建康(けんこう)の石頭城(せきとうじょう)が開かれて官軍は敗れ、元帝(げんてい)は兵を収めなければ琅邪(ろうや)へ帰って位を譲るとまで王敦(とん)に伝えた。王敦(とん)は自ら丞相(じょうしょう)となって戴若思(じゃくし)と周顗(ぎ)を殺し、元帝(げんてい)は翌323年の初めに内殿(ないでん)で没した。崩御(ほうぎょ)の条には病のことが書かれておらず、本紀(ほんぎ)は末尾のまとめで、臣下に凌がれて憂憤のうちに世を去ったと記す。憂憤から病になって没したと書くのは資治通鑑(しじつがん)である。晋書(しんじょ)の史臣(ししん)は、元帝(げんてい)が強い臣下を抑えられなかったと評している。

在位中の出来事(13件)

被反乱317年〜319年杜曾・第五猗の反乱
改元318年4月26日元号を「太興」とする
大赦318年4月26日
被反乱319年彭城内史周抚の反乱
被反乱319年龍驤将軍陳川の離反(石勒に降る)
被反乱319年〜322年太山太守徐龕の反乱
被反乱319年秦州刺史陳安の離反(劉曜に降る)
大赦320年
改元322年元号を「永昌」とする
大赦322年
残り3件を表示
大赦322年
被反乱322年新昌太守梁碩の反乱
被反乱322年2月〜323年1月3日王敦の乱(永昌元年)

東晋の歴代皇帝

11名の一覧

関連動画

当サイトとは無関係の外部YouTubeチャンネル「鳥人間 中国史三昧」様が制作・公開されている解説動画です。

即位経路が「自立」の48名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。