東晋第3代分裂期の王朝
成帝司馬衍
在位 325年10月19日〜342年7月26日(16年284日)
成帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 帝紀第七 顯宗成帝
- 即位経路
- 晉書 帝紀第七 顯宗成帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
司馬衍は東晋の明帝の長子で、幼くして即位し、母の庾太后が臨朝して、その兄の庾亮らが政を輔けた。治世の初めに蘇峻の乱が起こり、都を陥とされて石頭へ移されたが、長じてからは自ら政務に心を留めた。
即位まで
325年に皇太子に立てられ、同じ年に明帝が崩じた翌日に即位した。母の庾皇后を皇太后とし、太后が臨朝称制して、王導と庾亮が朝政を輔けた。
治世と最期
326年、南頓王の司馬宗が罪ありとして誅され、一族は馬氏に貶された。晋書の庾亮伝と王導伝によれば、庾亮は蘇峻をいずれ乱を起こす者と見て大司農として召し、王導や温嶠の反対を聞かなかった。327年、蘇峻は祖約とともに挙兵し、翌年建康を陥とすと庾亮は尋陽へ逃れ、賊兵は帝座に迫って太后の後宮に乱入した。同じ年に庾太后が崩じ、晋書の后妃伝は乱で辱めを受けたことを憂えて崩じたと記す。蘇峻は司馬衍を石頭に移して倉庫を宮とし、司馬衍は泣きながら車に乗ったという。蘇峻はまもなく出撃して落馬し斬られたが、弟の蘇逸が後を継ぎ、329年に司馬衍は温嶠の船に迎えられて、焼けた宮殿の代わりに建平園を宮とした。乱の後、司馬宗が謀反で誅されたと庾亮から聞いた司馬衍は、舅が人を賊と呼べば殺すが、人が舅を賊と呼べばどうするのかと泣いて言い、庾亮は顔色を変えた。のちにもう一人の舅である庾懌が王允之に毒酒を送ったことが露見すると、司馬衍は怒り、庾懌は毒を仰いで死んだ。342年、病の司馬衍は詔で同母弟の琅邪王司馬岳を後継に指名し、西堂で崩じた。資治通鑑によれば、司馬衍の二人の子はまだ襁褓にあり、庾冰が外戚の権勢を保つために年長の司馬岳を立てさせて、何充が反対した。晋書の何充伝と康帝紀も庾冰が外戚の権勢を保つために司馬岳を立てさせたと記すが、成帝紀は詔で母弟を指名したことだけを書く。