東晋第9代分裂期の王朝
孝武帝司馬曜
在位 372年9月12日〜396年11月6日(24年61日)
姓司馬諱曜字昌明廟号烈宗
孝武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 卷九 帝紀第九 烈宗孝武帝/卷十二 志第二 天文中/資治通鑑 卷第一百八 晉紀三十/魏書 卷九十六 僭晉司馬叡傳
- 即位経路
- 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を退けた時代の東晋の皇帝で、晩年は酒に溺れ、寵愛した張貴人に殺された。晋書の史臣は、苻堅が肥水で軍を失った時運に当たっただけで、武と号されたのは過分ではないかと評している。
即位まで
簡文帝の第三子で、母の李太后は織坊の宮人から簡文帝に召された人である。365年に会稽王となり、372年に皇太子に立てられたその日に簡文帝が没して即位した。まだ幼く、夕方になっても哭礼に臨まず、諫められると、哀しみが至れば哭する、決まりなどあろうかと答えたという。
治世と最期
376年に元服して皇太后から政治を返され、親政を始めた。383年、東晋の諸将は肥水で苻堅と戦って大破し、数万を捕らえ斬った。晋書の謝安伝は、勝報を受けた謝安が碁を続けたまま、子どもたちがもう賊を破ったとだけ答えたと書く。385年に謝安が没すると、同母弟の琅邪王道子が都督中外諸軍事となった。道子伝によれば、帝は政務を自ら執らずに道子と酒宴にふけり、官は賄賂で動いて政治が乱れた。やがて帝は道子を疎み、王恭・殷仲堪らを要職に置いてひそかに抑えようとした。晩年は酒色に溺れ、長星に向かって、昔から万年も生きた天子などいたかと杯を勧めたと本紀は記す。396年、寵愛する張貴人に、年からいえばもう廃されるべきだと戯れたところ、貴人はひそかに怒り、その夕方、酔った帝は清暑殿で急死した。晋書の本紀は殺し方を書かない。資治通鑑と魏書は、張貴人が婢に布団で帝の顔を覆わせて殺し、左右に賄賂を贈ってうなされて死んだと言わせたと書き、道子らの下で罪は問われなかった。
在位中の出来事(32件)
大赦372年9月12日
被反乱372年12月妖賊盧悚の宮中乱入事件
改元373年元号を「寧康」とする
大赦374年寧康二年春正月癸未朔、大赦。
被反乱374年天門蜑賊の乱
被反乱374年銭歩射・銭弘の乱(長城)
大赦375年寧康三年春正月辛亥、大赦。
大赦375年寧康三年秋八月癸巳、皇后王氏を立てるのに伴い大赦、文武の位を一等進める。
立后375年
改元376年元号を「太元」とする
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大赦376年
大赦376年太元元年夏五月甲寅、地震を受けた詔の後に大赦、文武の位を各一等進める。
大赦379年太元四年春正月辛酉、大赦。
大赦380年太元五年六月甲子、比歳の凶作を理由に大赦、太元三年以前の逋租・宿債を蠲除。
被反乱380年〜381年李遜の乱(交州)
被反乱381年檀元之の乱(会稽)
大赦382年太元七年秋八月癸卯、大赦。
大赦383年太元八年三月丁巳、大赦。
大赦383年
大赦384年太元九年冬十月乙丑、玄象(天象)の異常を理由に大赦。
大赦385年太元十年八月甲午、大赦。
大赦386年太元十一年三月、大赦。
被反乱386年〜390年張愿の離反(泰山太守、翟遼への投降)
大赦387年太元十二年春正月丁未、大赦。
大赦387年太元十二年秋八月辛巳、皇子徳宗(後の安帝)を皇太子に立てるのに伴い大赦、文武の位を二等進め、大酺五日。
被反乱387年翟暢の離反(高平、太守を捕らえ翟遼へ投降)
被反乱389年劉黎の乱(彭城、僭称皇帝)
大赦390年太元十五年三月戊辰、大赦。
被反乱390年李耽の乱(永嘉)
大赦392年太元十七年春正月己巳朔、大赦、逋租・宿債を除く。
被反乱392年蒋喆の乱(青州)
被反乱393年司馬徽の乱(馬頭山)