
北魏(南北朝)第9代分裂期の王朝
孝荘帝元子攸
在位 528年5月15日〜531年1月6日(2年236日)
孝荘帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻十 孝莊紀/北史 巻五 魏本紀
- 即位経路
- 魏書 巻十 孝莊紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
元子攸は北魏の彭城王元勰の第三子で、528年に爾朱栄に擁されて位に即き、その直後に河陰の変が起きた。530年に自ら爾朱栄を斬ったが、その報復として爾朱兆に捕らえられ、晋陽の寺で殺された。
即位まで
元子攸は幼くして孝明帝の書の相手として宮中に仕え、526年に長楽王に進んだ。528年に孝明帝が崩じると、廃立を謀った爾朱栄は、家に忠勲があり人望もある元子攸とひそかに通じた。魏書の爾朱栄伝によれば、誰を立てるか迷った爾朱栄は諸王の子孫の像を銅で鋳させ、元子攸の像だけが成った。元子攸は兄弟とともに夜に黄河を渡って爾朱栄と会い、翌日帝位に即いた。その二日後、爾朱栄は霊太后と幼主を殺し、元子攸の兄弟や公卿らを河陰で殺した。死者の数を魏書の本紀は二千余人とし、爾朱栄伝は千三百余人、洛陽伽藍記は三千余人として、資治通鑑考異は本紀に従う。
治世と最期
変の後、元子攸は帝位を望まないと爾朱栄に伝えさせ、爾朱栄は自分の金像を鋳させたが、何度鋳ても成らなかった。元子攸は宮に入って建義と改元したが、爾朱栄に迫られて常に不快で、身の安全を恐れてひそかに爾朱栄を図る意を持った。530年、資治通鑑によれば城陽王元徽の策で皇子の誕生と称して爾朱栄を誘い、明光殿で膝下の刀で自ら斬った。531年の初め、爾朱兆らが騎兵で黄河を渡って洛陽を襲い、元子攸を永寧寺に移して皇子を殺した。爾朱兆は元子攸を晋陽に移し、魏書の本紀は晋陽城内の三級仏寺で崩じたとだけ書く。資治通鑑と洛陽伽藍記は三級寺で縊り殺されたとし、伽藍記は死に臨んで二度と国王に生まれぬことを仏に願ったと記す。魏書の爾朱兆伝は殺した寺を五級寺としている。