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北魏(ほくぎ)(南北朝(なんほくちょう))第6代分裂期の王朝

孝文帝(こうぶんてい)元(げん)宏(こう)

在位 471年9月20日〜499年4月26日(27年225日)

姓元(げん)諱宏(こう)廟号高祖(こうそ)

孝文帝の人物データ

生年
467年10月13日
在位
  • 471年9月20日〜499年4月26日
在位 27年225日5歳で即位(数え年)・長さは365名中30位
没年
499年4月26日33歳(数え年)267名中長寿順174位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
内禅
先代
次代
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 巻7下 高祖紀下
即位経路
魏書 巻6 顯祖紀/巻7上 高祖紀上

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

都を平城(へいじょう)から洛陽(らくよう)へ移し、服制(ふくせい)・言葉・姓を漢風に改めた北魏(ほくぎ)の皇帝である。魏書(ぎしょ)の史臣(ししん)は、武威(ぶい)を業としてきた北魏(ほくぎ)で礼制と文章を整えたと評する。

即位まで

献文帝(けんぶんてい)の長子で、467年に平城(へいじょう)の紫宮(しきゅう)で生まれた。献文帝(けんぶんてい)は世事を厭(いと)い、はじめ叔父の京兆王(けいちょうおう)子推(しすい)に位を譲ろうとしたが、群臣が固く諫(いさ)めて止め、471年に太子が即位して延興(えんこう)と改元(かいげん)した。

治世と最期

476年に太上(たいじょう)皇帝の献文帝(けんぶんてい)が没し、馮(ふう)太后(たいこう)が臨朝(りんちょう)した。皇后伝(こうごうでん)は献文帝(けんぶんてい)の急死を当時太后の仕業だと言われたと記し、資治通鑑(しじつがん)は馮(ふう)太后(たいこう)が毒を盛ったと断定して書く。太后の臨朝(りんちょう)中、孝文帝(こうぶんてい)は事の大小なく太后に従ったが、太后は聡明(そうめい)な帝を冯氏(ふうし)に不利と見て廃そうとし、寒中に単衣で閉じ込めて三日食事を絶った。490年に太后が没した。493年、百万余りの兵を率いて南伐(なんばつ)に出たが、洛陽(らくよう)で群臣が馬前に叩頭(こうとう)して中止を請うと、これを止めて遷都を定めた。任城王(にんじょうおう)澄伝は、表向きは南討を掲げて本意は遷都にあったと記す。495年には六宮(りくきゅう)と百官がすべて洛陽(らくよう)へ移り、衣服の制度を改め、朝廷で北の言葉を使えば官を免じるとした。496年には姓を元氏(げんし)に改めた。497年、北へ帰ろうと謀った皇太子(こうたいし)恂(じゅん)を廃して庶人(しょじん)とした。499年、南伐(なんばつ)の途中で病み、馬圏(ばけん)で陳顕達(けんたつ)を破ったのち重くなって谷塘原(こくとうげん)へ退き、皇后の馮氏(ふうし)に死を賜るよう命じて行宮で没した。喪は魯陽(ろよう)まで伏せられた。

在位中の出来事(48件)

改元471年9月20日元号を「延興」とする
大赦471年9月20日皇興五年秋八月丙午、太華前殿にて即位、大赦、改元して延興元年とする。
被反乱471年10月青州高陽民封辯の斉王僭称・蜂起
被反乱471年10月〜472年3月朔方民曹平原の乱
被反乱471年11月沃野・統万二鎮敕勒叛乱
被反乱471年11月平陵の妖賊司馬小君の乱
被反乱472年統万鎮胡民の北叛
被反乱472年東部敕勒の蠕蠕への逃亡叛乱
被反乱472年光州民孫晏の乱(劉昱に通謀)
被反乱472年河西費也頭の反乱
残り38件を表示
被反乱473年柔玄鎮敕勒二部の蠕蠕呼応叛乱
被反乱473年妖人劉挙の自称天子事件
被反乱473年武都王の反乱(仇池侵攻)
被反乱475年洛州賈伯奴(恆農王僭称)・田智度(上洛王僭称)の夜襲
改元476年元号を「承明」とする
大赦476年
被反乱476年冀州武邑民宋伏龍の南平王僭称
改元477年元号を「太和」とする
大赦477年太和元年八月壬子、大赦天下。
被反乱477年〜478年秦州略陽民王元寿の冲天王僭称
大赦479年太和三年冬十月己巳朔、大赦天下。
被反乱479年青州主簿崔次思の謀叛
被反乱480年〜481年蘭陵民桓富らの五固拠点蜂起(司馬朗之推戴)
被反乱480年洮陽羌の叛乱
被反乱480年雍州氐酋斉男王の反乱
大赦481年太和五年二月辛卯朔、大赦天下。
大赦482年太和六年春正月甲戌、大赦天下。
大赦483年太和七年閏月(四月と五月の間の閏四月)癸丑、皇子誕生に伴い大赦天下。
大赦484年太和八年六月丁卯、班禄(官吏への俸禄制導入)の詔とともに大赦天下。
大赦486年太和十年六月己卯、皇子恂(のち廃太子)の命名に伴い大赦天下。
大赦488年太和十二年夏四月甲子、大赦天下。
被反乱489年兗州民王伯恭の斉王僭称(労山)
大赦492年太和十六年四月丁亥朔、新律令頒布とともに大赦天下。
大赦493年太和十七年冬十月乙未、南征途上の石済にて遷都の意を告げ、大赦天下。
立后493年太和十七年夏四月戊戌、立皇后馮氏(馮熙の長女、後に太和二十年七月に廃后)。
親征493年南斉(蕭昭業/蕭賾期)
遷都494年平城 → 洛陽
大赦495年太和十九年十一月丙戌、圜丘での祭祀(有事於圜丘)に際し大赦天下。
親征495年南斉(蕭鸞)
被反乱496年〜497年汾州叛胡の乱
被反乱496年恆州(代都平城)における穆泰・陸叡の反遷都謀反
立后497年太和二十一年秋七月甲午、昭儀馮氏(馮熙の次女、馮潤)を立てて皇后とする。
皇太子廃立497年太和二十年十二月丙寅、皇太子恂を廃して庶人とする(丁卯、告太廟)。
親征497年〜498年南斉(蕭鸞→蕭宝巻)
被反乱497年梁州叛羌の乱
被反乱497年〜498年敕勒樹者らの反乱
大赦499年2月太和二十三年春正月甲辰、大赦天下(帝の病気平癒を祝う上寿の直後)。
親征499年4月〜499年5月南斉(蕭宝巻将陳顕達)

北魏の歴代皇帝

18名の一覧

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