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宣帝の肖像

陳(ちん)(南北朝(なんほくちょう))第4代分裂期の王朝

宣帝(せんてい)陳頊(ちんきょく)

在位 569年2月5日〜582年2月17日(13年15日)

姓陳(ちん)諱頊(きょく)字紹世(しょうせい)幼名師利(しり)廟号高(こう)宗(そう)

宣帝の人物データ

生年
530年8月
在位
  • 569年2月5日〜582年2月17日
在位 13年15日長さは365名中104位
没年
582年2月17日53歳(数え年)267名中長寿順70位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
簒奪
先代
  • 廃帝陳宣帝は廃帝の叔父
次代
  • 後主陳後主は宣帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
陳書/卷五 本紀第五 宣帝
即位経路
陳書/卷五 本紀第五 宣帝;陳書/卷二十 列傳第十四 到仲舉・韓子高・華皎

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

甥(おい)の廃帝(はいてい)が太后の令で退けられたあとに位を継いだ陳の皇帝で、北伐(ほくばつ)で淮南(わいなん)を取り戻したが、呂梁(りょりょう)の大敗でそれを失った。陳書(ちんじょ)の史臣(ししん)は、淮南(わいなん)を取り戻したことを認めつつ、呂梁(りょりょう)での全軍の覆没が江南(こうなん)を弱らせたと評する。

即位まで

始興昭烈王(しこうしょうれつおう)の第二子で、兄は文帝(ぶんてい)である。江陵(こうりょう)が陥ると関中(かんちゅう)へ移され、562年に陳へ帰った。陳書(ちんじょ)の廃帝(はいてい)紀(き)によれば、文帝(ぶんてい)は臨終に宣帝(せんてい)を呼んで弟に位を譲りたいと告げ、宣帝(せんてい)は涙を流して固辞した。文帝(ぶんてい)のあとは子の廃帝(はいてい)が継いだが、568年、慈訓太后(じくんたいこう)の令で臨海王(りんかいおう)に落とされ、宣帝(せんてい)が位を継いだ。太后の令は、廃帝(はいてい)が劉(りゅう)師知(しち)らに宣帝(せんてい)を排斥させたことを罪に挙げた。資治通鑑(しじつがん)は、廃帝(はいてい)が劉(りゅう)師知(しち)・華皎(こう)らと通謀したという令の言い分を誣告(ぶこく)と書き、周書(しゅうしょ)は宣帝(せんてい)が主を廃して自立したと記す。569年に太極前殿で即位し、太建(たいけん)と改元(かいげん)して大赦した。

治世と最期

廃帝(はいてい)の弟の陳伯茂(はくぼう)は侯に落とされて移される途中、陳書(ちんじょ)では盗に遭って死んだとされるが、資治通鑑(しじつがん)は宣帝(せんてい)が殺させたと明記する。廃帝(はいてい)は570年に死んだが、陳書(ちんじょ)・南史(なんし)はその死因を記さない。573年、呉明徹(ごめいてつ)を都督として十万の兵で北伐(ほくばつ)を始めた。578年、北周(ほくしゅう)の王軌(おうき)が鉄鎖で車輪を貫いて船路を断ち、退こうとした陳軍は浅瀬で潰え、呉明徹(ごめいてつ)以下が捕らえられた。580年の初めまでに、淮南(わいなん)の地はことごとく北周(ほくしゅう)に奪われた。582年、病にかかって宣福殿(せんぷくでん)で崩じた。隋書(ずいしょ)の高熲(こうけい)伝によれば、このとき隋(ずい)は陳を攻めていたが、高熲(こうけい)は喪中の国を伐たないとして兵を退くよう奏請(そうせい)した。

在位中の出来事(10件)

改元569年2月5日元号を「太建」とする
大赦569年2月5日
立后569年2月5日
被反乱569年11月〜570年3月欧陽紇の広州挙兵
大赦570年
大赦571年
大赦572年
大赦578年
大赦579年
被反乱579年廬江の蛮・田伯興の乱

陳の歴代皇帝

5名の一覧

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