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文帝の肖像

陳(ちん)(南北朝(なんほくちょう))第2代分裂期の王朝

文帝(ぶんてい)陳(ちん)蒨(せん)

在位 559年8月17日〜566年5月31日(6年289日)

姓陳(ちん)諱蒨(せん)字子華(しか)廟号世祖(せいそ)

文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 559年8月17日〜566年5月31日
在位 6年289日長さは365名中161位
没年
566年5月31日
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 武帝陳文帝は武帝の甥
次代
  • 廃帝陳廃帝は文帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
陳書/卷三 本紀第三 世祖
即位経路
陳書/卷三 本紀第三 世祖(公式記述);南史/卷六十六 列傳第五十六 侯安都(実態)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

叔父の武帝(ぶてい)の跡を継いだ陳の皇帝で、王琳(おうりん)や地方の豪族を平らげて国を固め、倹約に努めた。

即位まで

始興昭烈王(しこうしょうれつおう)の長子で、父は武帝(ぶてい)の兄にあたり、侯景(こうけい)の乱で流れ矢に当たって死んだ。559年に武帝(ぶてい)が没すると、遺詔(いしょう)で南皖(なんかん)から召され、皇后の令を受けて再三辞退したのち、その日のうちに即位した。皇后の令は、武帝(ぶてい)の遺児が幼く帰国の目途も無いので、年長の主を立てるとした。蔡(さい)景歴(けいれき)伝によれば、皇后は喪を秘して文帝(ぶんてい)を急ぎ呼び寄せた。侯安都(あんと)伝は、皇后が衡陽王(こうようおう)陳昌(しょう)のことを理由に令を渋り、侯安都(あんと)が剣に手を掛けて殿に上り、玉璽(ぎょくじ)を出させたと記すが、本紀(ほんぎ)にこの件は無い。

治世と最期

560年、侯瑱(こうてん)が梁山(りょうざん)で王琳(おうりん)を破り、王琳(おうりん)と主の蕭荘(しょうそう)は北斉(ほくせい)へ逃れた。同じ年、衡陽王(こうようおう)陳昌(しょう)が長江(ちょうこう)を渡る途中で死んだ。その死を陳書(ちんじょ)の本紀(ほんぎ)は薨(こう)とだけ書き、陳昌(しょう)の伝は船が壊れての溺死とし、侯安都(あんと)伝は迎えに出た侯安都(あんと)がその功で進爵(しんしゃく)したと記す。南史(なんし)と資治通鑑(しじつがん)は、陳昌(しょう)が長江(ちょうこう)の中流で殺され溺死と報じられたと明記し、南史(なんし)の侯安都(あんと)伝は侯安都(あんと)が殺したとする。562年の初めには国の費用の不足から塩に課税し、酒を専売とした。563年に侯安都(あんと)に死を賜った。564年には章昭達(しょうたつ)が陳宝応(ほうおう)を破り、陳宝応(ほうおう)と留異を捕らえて都へ送った。566年、病が重くなってその日のうちに有覚殿(ゆうかくでん)で没し、遺詔(いしょう)で太子に位を継がせた。本紀(ほんぎ)は、苦難から身を起こして民の苦しみを知り、国の費用を切り詰め、眠っていても時刻の札の音で起こさせたと記す。

在位中の出来事(15件)

大赦559年8月17日
被反乱559年12月〜560年3月王琳・蕭荘の乱
被反乱560年紀機の叛乱(王琳に呼応)
被反乱560年〜564年留異の乱
被反乱562年〜565年周迪の乱
被反乱563年〜564年陳宝応の乱
改元日付不詳元号を「天嘉」とする
改元日付不詳元号を「天康」とする
大赦日付不詳
大赦日付不詳
残り5件を表示
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳
立后日付不詳
被反乱日付不詳熊曇朗の乱

陳の歴代皇帝

5名の一覧

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