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高帝の肖像

斉(せい)・南北朝(なんほくちょう)第1代分裂期の王朝

高帝(こうてい)蕭道成(しょうどうせい)

在位 479年5月29日〜482年4月11日(2年318日)

姓蕭(しょう)諱道成(どうせい)字紹伯(しょうはく)幼名闘将(とうしょう)廟号太祖(たいそ)

高帝の人物データ

生年
427年
在位
  • 479年5月29日〜482年4月11日
在位 2年318日長さは365名中228位タイ
没年
482年4月11日56歳(数え年)267名中長寿順51位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 順帝宋・南北朝高帝と順帝に血縁はない
次代
  • 武帝斉・南北朝武帝は高帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
南齊書/卷2(高帝紀下)
即位経路
南齊書/卷1(高帝紀上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

蕭道成(しょうどうせい)は劉宋(りゅうそう)の将軍から権臣となり、479年に宋(そう)の順帝(じゅんてい)から位を譲られて南斉(なんせい)を建てた。477年に後廃帝(こうはいてい)が殺されたのち順帝(じゅんてい)を立てて実権を握り、即位ののち482年に世を去った。

即位まで

蕭道成(しょうどうせい)は字を紹伯(しょうはく)といい、南斉書(なんせいしょ)は漢の相国(しょうこく)蕭何(しょうか)の二十四世の孫とする。宋(そう)の明帝(めいてい)の即位後に四方が背くと、蕭道成(しょうどうせい)は東討に出て、晋陵(しんりょう)で一日に十二の塁を破った。明帝(めいてい)は蕭道成(しょうどうせい)を人臣の相ではないと嫌い、呉喜に酒を届けさせて試したが、蕭道成(しょうどうせい)は戎衣(じゅうい)のまま出迎えてすぐに飲んだ。明帝(めいてい)の死に際しては遺詔(いしょう)で右衛将軍(うえいしょうぐん)となり、袁(えん)粲(さん)・褚(ちょ)淵(えん)・劉(りゅう)勔(べん)とともに機事(きじ)を掌った。474年、桂陽王(けいようおう)劉休範(りゅうきゅうはん)が尋陽(じんよう)で挙兵すると、蕭道成(しょうどうせい)は新亭(しんてい)で迎え撃ち、張敬兒(けいじ)が劉休範(りゅうきゅうはん)の首を斬った。477年、楊(よう)玉夫(ぎょくふ)らが後廃帝(こうはいてい)を殺してその首が蕭道成(しょうどうせい)に送られ、宋書(そうじょ)と資治通鑑(しじつがん)は、蕭道成(しょうどうせい)が王敬則(けいそく)と謀ってこれを仕組(しく)んだと記す。蕭道成(しょうどうせい)は順帝(じゅんてい)を迎えて立て、石頭で挙兵した袁(えん)粲(さん)らを斬り、郢城(えいじょう)を落とせなかった沈攸之(ゆうし)も自ら縊(くび)れた。479年、蕭道成(しょうどうせい)は相国(しょうこく)・斉公(せいこう)となって九錫(きゅうしゃく)を備え、斉王に進んだのち、順帝(じゅんてい)から位を譲られて南郊で即位した。

治世と最期

即位後、宋帝(そうてい)を汝陰王(じょいんおう)に封じたが、汝陰王(じょいんおう)はまもなく死に、宋(そう)の皇族も誅(ちゅう)された。南斉書(なんせいしょ)は汝陰王(じょいんおう)の死を薨(こう)じたとだけ書くが、南史(なんし)と資治通鑑(しじつがん)は、監視の者が王を殺して病死と報告したと記し、資治通鑑(しじつがん)は衛士が乱を恐れて押し入ったとする。蕭道成(しょうどうせい)は贅沢(ぜいたく)な物を退け、天下を十年治めれば黄金と土を同じ値にしてみせると言った。482年、褚(ちょ)淵(えん)と王倹を召して遺詔(いしょう)し、臨光殿(りんこうでん)で崩じた。

在位中の出来事(4件)

改元479年5月29日元号を「建元」とする
大赦479年5月29日
大赦480年
大赦481年

斉・南北朝の歴代皇帝

7名の一覧

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

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