斉・南北朝第2代分裂期の王朝
武帝蕭賾
在位 482年4月11日〜493年8月27日(11年141日)
武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 南齊書/卷3(武帝紀)
- 即位経路
- 南齊書/卷3(武帝紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
蕭賾は南斉の高帝蕭道成の長子で、482年に父の死を受けて位に即いた。永明と改元して治め、皇太子の蕭長懋に先立たれたのちは孫の蕭昭業を皇太孫に立てて後を託し、493年に病で世を去った。
即位まで
斉国が建つと蕭賾は斉公世子・王太子となり、蕭道成の即位とともに皇太子となった。南斉書の豫章王嶷伝によれば、蕭賾が意に沿わないことがあって蕭道成は嫡子を替える意を持ったが、弟の蕭嶷は蕭賾に恭しく仕えた。魏書は、太子時代の奢侈を嫌った蕭道成がたびたび廃そうとし、王敬則のとりなしで免れたと記すが、南斉書と南史の本紀にこの話は無い。482年、蕭道成が崩じると蕭賾が即位して大赦し、翌年に永明と改元した。
治世と最期
南史の本紀は治世を通じて北魏との使者の往来を繰り返し記すが、南斉書の本紀はこれを載せない。490年に巴東王蕭子響が乱を起こすと、南斉書の子響伝は白服で降って死を賜ったとし、南史は文恵太子蕭長懋の密命を受けた蕭順之が縊り殺したとする。493年、皇太子の蕭長懋が先に世を去り、蕭賾はその子の蕭昭業を皇太孫に立てた。同じ年、北魏が辺境を侵すなかで病に倒れた蕭賾は、朝野の動揺を恐れて病を押し、楽府に正声伎を奏させた。遺詔は社稷を皇太孫に託し、竟陵王蕭子良に補佐させ、内外の事はすべて蕭鸞とはかるよう命じた。資治通鑑と南斉書の王融伝は、危篤の蕭賾が一時息絶えたとき、王融が蕭子良を立てようとして皇太孫の儀仗を阻んだと記すが、南斉書の本紀はこの事件を載せない。魏書によれば、北魏の南伐は蕭賾の死によって取りやめになった。本紀は蕭賾を剛毅で決断力があり富国を先とした君主と評し、遊宴を好んだかどうかについては南斉書と南史・資治通鑑が正反対に記す。