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斉(せい)・南北朝(なんほくちょう)第3代分裂期の王朝

廃帝(はいてい)蕭昭業(しょうしょうぎょう)

在位 493年8月27日〜494年9月5日(1年9日)

姓蕭(しょう)諱昭業(しょうぎょう)字元尚(げんしょう)幼名法身(ほっしん)別称鬱林王(うつりんおう)

廃帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 493年8月27日〜494年9月5日
在位 1年9日長さは365名中288位
没年
494年9月5日21歳(数え年)267名中長寿順228位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 武帝斉・南北朝廃帝は武帝の孫
次代
  • 廃帝斉・南北朝廃帝は廃帝の弟

出典(死因・即位経路)

死因
南齊書/卷4(鬱林王紀)
即位経路
南齊書/卷4(鬱林王紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

祖父の武帝(ぶてい)の跡を継いだ南斉(なんせい)の皇帝で、喪中から遊興にふけって国庫を空にし、即位の翌年に一族の蕭(しょう)鸞(らん)が差し向けた兵に殺されて鬱林王(うつりんおう)に落とされた。南斉書(なんせいしょ)の史臣(ししん)は、見た目の華やかさに皆が惑わされたが、本心を隠して偽っていたと評する。

即位まで

文恵太子(ぶんけいたいし)の長子で、字は元尚(げんしょう)、小名は法身(ほっしん)という。父が没すると皇太孫(たいそん)に立てられ、493年に武帝(ぶてい)が没して即位した。魏書(ぎしょ)は、武帝(ぶてい)が危篤のとき王融が竟陵王(きょうりょうおう)蕭(しょう)子良(しりょう)を立てようとしたが、武帝(ぶてい)が息を吹き返して鬱林王(うつりんおう)が殿に入ったと記す。即位の年に母を皇太后に尊び、何氏(かし)を皇后に立てた。

治世と最期

武帝(ぶてい)の喪中も哭礼(こくれい)が済むと後宮に入って胡妓(こぎ)に演奏させ、賞賜を重ねて一年のうちに斎庫(さいこ)の銭数億をほぼ使い果たした。494年に隆昌(りゅうしょう)と改元(かいげん)して大赦した。蕭(しょう)鸞(らん)がたびたび諫(いさ)めても聞かず、蕭(しょう)鸞(らん)の上啓(じょうけい)で側近の徐龍駒(りゅうく)や周奉叔(ほうしゅく)らが次々に誅(ちゅう)された。鬱林王(うつりんおう)は何胤(いん)と蕭(しょう)鸞(らん)を除こうとしたが何胤(いん)が応じず、のちに蕭(しょう)鸞(らん)を西州(せいしゅう)へ出そうとした。変を恐れた蕭(しょう)鸞(らん)は廃立を決め、同じ年に蕭(しょう)諶(しん)らに兵を率いて宮中に入らせた。鬱林王(うつりんおう)は剣で自らを刺したが刺し損じ、担ぎ出されて西弄(せいろう)で殺された。その翌日、太后の令で鬱林王(うつりんおう)に落とされ、弟の新安(しんあん)王が迎えられた。魏書(ぎしょ)は、剣を抜いて拒んだところを蕭(しょう)鸞(らん)自身が殺したとするが、南斉書(なんせいしょ)の本紀(ほんぎ)にその記述は無い。没年齢を南斉書(なんせいしょ)は二十一とし、南史(なんし)は二十二とする。

在位中の出来事(4件)

立后493年11月永明十一年(即位年)冬十月壬寅、皇太孫太妃を皇太后に尊ぶと同時に何氏を皇后に立てた。
改元494年1月23日元号を「隆昌」とする
大赦494年1月23日隆昌元年春正月丁未、改元と同時に大赦を実施。
被反乱494年9月5日蕭鸞による廃位・弑逆クーデター

斉・南北朝の歴代皇帝

7名の一覧

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