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斉(せい)・南北朝(なんほくちょう)第4代分裂期の王朝

廃帝(はいてい)蕭昭文(しょうしょうぶん)

在位 494年9月10日〜494年11月23日(74日)

姓蕭(しょう)諱昭文(しょうぶん)字季尚(きしょう)諡号恭王(きょうおう)別称海陵王(かいりょうおう)

廃帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 494年9月10日〜494年11月23日
在位 74日長さは365名中342位
没年
494年12月15歳(数え年)267名中長寿順253位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 廃帝斉・南北朝廃帝は廃帝の弟
次代
  • 明帝斉・南北朝明帝は廃帝の同族(遠縁)

出典(死因・即位経路)

死因
南齊書/卷5(海陵王紀)
即位経路
南齊書/卷5(海陵王紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

蕭昭文(しょうしょうぶん)は南斉(なんせい)の文恵太子(ぶんけいたいし)蕭長懋(しょうちょうぼう)の第二子で、494年、兄の鬱林王(うつりんおう)蕭昭業(しょうしょうぎょう)が廃されたのち蕭(しょう)鸞(らん)に立てられた。起居まで蕭(しょう)鸞(らん)の指図に従う身で、その年のうちに海陵王(かいりょうおう)へ降され、まもなく病と称して殺された。

即位まで

鬱林王(うつりんおう)は文恵太子(ぶんけいたいし)妃の王宝明(ほうめい)の子で、蕭昭文(しょうしょうぶん)は宮人(きゅうじん)許氏(きょし)の子である。486年に臨汝公(りんじょこう)に封ぜられ、兄が即位すると新安(しんあん)王となった。494年、鬱林王(うつりんおう)が廃されると、尚書令(しょうしょれい)の西昌侯(せいしょうこう)蕭(しょう)鸞(らん)が蕭昭文(しょうしょうぶん)を帝に立てることを議した。鬱林王(うつりんおう)の最期を南史(なんし)は殿を出たところで弑(しい)されたとし、魏書(ぎしょ)は蕭(しょう)鸞(らん)が自ら殺したとする。蕭昭文(しょうしょうぶん)は即位して延興(えんこう)と改元(かいげん)し、蕭(しょう)鸞(らん)を驃騎大将軍(ひょうきだいしょうぐん)・録尚書事(ろくしょうしょじ)・揚州(ようしゅう)刺史(しし)とした。

治世と最期

即位ののち、鄱陽王(はようおう)蕭(しょう)鏘(しょう)や随郡王(ずいぐんおう)蕭(しょう)子隆(しりゅう)が誅(ちゅう)され、安陸(あんりく)王蕭(しょう)子敬(しけい)も討たれると、江州(こうしゅう)刺史(しし)の晋安王(しんあんおう)蕭(しょう)子懋(しぼう)が兵を挙げた。その討手(うって)を南斉書(なんせいしょ)と魏書(ぎしょ)は入れ替えて記している。蕭(しょう)鸞(らん)は太傅(たいふ)・大将軍(だいしょうぐん)・揚州牧(ようしゅうぼく)となって宣城王(せんじょうおう)に進み、その翌日には桂陽王(けいようおう)蕭(しょう)鑠(しゃく)ら諸王(しょおう)五人が誅(ちゅう)された。帝の起居はすべて蕭(しょう)鸞(らん)に諮ってから行われ、蒸した魚菜を食べたいと望んでも、録公(ろくこう)の命が無いとして与えられなかった。やがて皇太后の王宝明(ほうめい)の令が、帝は幼く病がちで重任に堪えないとして海陵王(かいりょうおう)に降し、蕭(しょう)鸞(らん)が位を継いだ。海陵王(かいりょうおう)は漢の東海王(とうかいおう)の故事に倣って遇されたが、王に病があると称して御医(ぎょい)がたびたび遣わされ、そのまま殺された。資治通鑑(しじつがん)は殺害の主を即位した蕭(しょう)鸞(らん)と明記し、南斉書(なんせいしょ)の本紀(ほんぎ)は主語を書かず、魏書(ぎしょ)はまもなく死んだとだけ記す。

在位中の出来事(4件)

改元494年9月10日元号を「延興」とする
大赦494年9月10日
被反乱494年10月晋安王蕭子懋の挙兵
被反乱494年11月23日〜494年12月蕭鸞によるクーデター的廃位・弑殺

斉・南北朝の歴代皇帝

7名の一覧

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