
呉・三国第1代分裂期の王朝
大帝孫権
在位 229年5月23日〜252年5月21日(23年4日)
大帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 三國志 呉書二 呉主傳
- 即位経路
- 三国志・呉書・呉主伝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の孫策から江東を継ぎ、赤壁で曹操を退け、荊州を取って呉を建てた皇帝である。陳寿は、屈辱に耐えて人を用いた英傑と評しつつ、猜疑と殺戮が晩年ますます甚だしく、のちに国が覆ったのも後継の廃立と無関係ではないとする。
即位まで
200年に兄の孫策が死ぬと、泣き止まない孫権に張昭が喪服を改めさせて馬に乗せ、軍を巡らせた。孫策伝によれば、孫策は臨終に、天下と争うことでは孫権は自分に及ばないが、賢者を用いて江東を保つことでは自分が及ばないと言い残した。208年、降伏論が多いなかで周瑜と魯粛の拒戦論に従い、周瑜らが劉備とともに赤壁で曹操軍を大破した。219年には呂蒙に公安を襲わせ、翌年の初めにかけて関羽父子を捕らえて荊州を平らげた。221年に魏の文帝から呉王に封じられ、翌年には陸遜が劉備の軍を大破した。229年に南郊で帝位に就き、父の孫堅を武烈皇帝と追尊したが、兄の孫策は長沙桓王とするにとどめた。
治世と最期
242年、子の孫和を皇太子、孫霸を魯王に立てた。孫和伝によれば、孫和の母と全公主の不和から孫和への寵が衰え、魯王が太子の位をうかがった。陸遜らが嫡庶の別を説いても、孫権は何年も決めなかった。注の殷基通語は、二人に別々の属僚を置いたことから党派が生じ、国中が二つに割れたと記す。太子を擁護した陸遜は、使者を重ねて送られて責められ、憤って死んだ。250年に孫和を廃し、孫霸に死を賜って、子の孫亮を太子とした。これに反対した者は一族誅殺や杖刑を受け、処罰された官は十数人に及んだ。251年、南郊の祭祀から還って病に臥し、252年に没した。本伝は病名を書かず、注の呉録だけが風疾とする。妃嬪伝によれば、皇后の潘氏は孫権の病中に呂后の故事を中書令に問わせていたが、看病に疲れて寝入ったところを宮人らに絞め殺され、のちに事が漏れて六、七人が罪に問われた。
在位中の出来事(26件)
残り16件を表示
呉・三国の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代大帝229–252年不詳
- 第2代孫亮252–258年諸説あり
- 第3代景帝258–264年不詳
- 第4代末帝264–280年不詳
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