
秦第1代統一王朝
始皇帝嬴政
在位 前221年〜前210年9月10日(10年265日)
始皇帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 史記・秦始皇本紀
- 即位経路
- 史記・秦始皇本紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
六国を降して天下を統一し、王の号を改めて皇帝と名乗った最初の人物である。天下を三十六郡に分け、度量衡・車軌・文字をそろえた。
即位まで
史記の本紀は、始皇帝を秦の荘襄王の子とし、荘襄王が趙で人質だったときに呂不韋の姫を娶って始皇帝が生まれたと記す。同じ史記の呂不韋列伝は、呂不韋が身ごもったと知っている姫を子楚(のちの荘襄王)に献じ、姫はそれを隠して子を産んだという話を載せる。三家注はこの出産の時期を常より二か月長い十二か月と注し、資治通鑑は姫が一年身ごもって子を産んだと書く。この話のとおりなら姫は呂不韋の子を一年ほど身ごもっていたことになり、このサイトの続柄は本紀に従って荘襄王を父としている。荘襄王が没すると、秦王に立った。
治世と最期
李斯の進言を容れて秦の記録以外の史書と民間の詩書を焼かせ、方士が逃げたことに怒って、禁を犯した諸生四百六十余人を咸陽で生き埋めにした。これを諫めた長子の扶蘇は、北辺の蒙恬のもとへ出された。最後の巡遊の途中に平原津で病み、扶蘇に宛てて、喪に加わり咸陽で葬儀をせよという書を作ったが、書が使者に渡る前に沙丘で没した。趙高・胡亥・李斯は死を伏せてこの書を破り、遺詔を受けたと偽って胡亥を太子に立て、扶蘇と蒙恬には死を命じる書を送った。本紀も李斯列伝も、地の文では扶蘇あての書を後継の指名とはっきり書いてはいない。李斯列伝では、趙高が李斯に向かって、咸陽で喪を迎えて跡継ぎに立てよという書だと語っている。帰りの車では暑さで遺体の臭いが立ち、鮑魚を積んで紛らわせたと本紀は記す。
秦の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代始皇帝前221–前210年病死
- 第2代二世皇帝前210–前207年自尽
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