本文へスキップ
景帝の肖像

前漢(ぜんかん)第6代統一王朝

景帝(けいてい)劉(りゅう)啓(けい)

在位 前157年7月14日〜前141年3月9日(15年242日)

姓劉(りゅう)諱啓(けい)

景帝の人物データ

生年
前188年
在位
  • 前157年7月14日〜前141年3月9日
在位 15年242日32歳で即位(数え年)・長さは365名中81位
没年
前141年3月9日48歳(数え年)267名中長寿順88位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 文帝前漢景帝は文帝の子
次代
  • 武帝前漢武帝は景帝の子
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
漢書・景帝紀
即位経路
漢書・景帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

諸侯王(しょこうおう)の領地を削ったことから呉楚(ごそ)七国(しちこく)の乱を招き、これを鎮めて、父の文帝(ぶんてい)とともに文景(ぶんけい)と称えられた前漢(ぜんかん)の皇帝である。

即位まで

文帝(ぶんてい)の太子で、母は竇(とう)皇后(こうごう)である。前157年に文帝(ぶんてい)が没すると、皇帝の位に就いた。

治世と最期

御史大夫(ぎょしたいふ)の晁錯(ちょうそ)は諸侯の罪を挙げて領地を削るよう奏上し、呉王(ごおう)は削っても削らなくても反するが、削れば早く反して禍は小さいと景帝(けいてい)に説いた。晁錯(ちょうそ)の父は、劉氏(りゅうし)は安らいでも晁氏(ちょうし)が危うくなると言って毒を飲んで死んだ。前154年、呉王(ごおう)濞(ひ)をはじめ楚(そ)・趙(ちょう)・膠西(こうせい)など七国(しちこく)の王が、晁錯(ちょうそ)を誅(ちゅう)するという名目で揃(そろ)って兵を挙げた。景帝(けいてい)は周亜夫(しゅうあふ)と竇嬰(とうえい)を討伐に送る一方、七国(しちこく)への謝罪として晁錯(ちょうそ)を斬った。晁錯(ちょうそ)伝によれば、晁錯(ちょうそ)は何も知らされないまま朝服(ちょうふく)で東市(とうし)に連れ出されて斬られ、のちに鄧公(とうこう)は、呉の反乱は数十年来のもので晁錯(ちょうそ)の誅殺(ちゅうさつ)は名目にすぎないと景帝(けいてい)に述べた。七国(しちこく)は破られ、呉王(ごおう)濞(ひ)は丹徒(たんと)へ逃れたが、呉王(ごおう)濞(ひ)伝によれば身を寄せた東越(とうえつ)に欺かれて殺され、ほかの六王(ろくおう)はみな自殺した。前150年に皇太子の栄を臨江王(りんこうおう)に落とし、王氏(おうし)を皇后に、膠東王(こうとうおう)の徹を皇太子に立てた。外戚(がいせき)伝によれば、長公主(ちょうこうしゅ)は娘を太子妃(たいしひ)にする話を栗姫(りつき)に断られて栗姫(りつき)を讒言(ざんげん)し、栗姫(りつき)を皇后に立てるよう求めた大行(たいこう)の奏上に景帝(けいてい)が怒って太子を廃した。臨江王(りんこうおう)栄は前148年に罪に問われて自殺した。前141年に未央宮(びおうきゅう)で没し、陽陵(ようりょう)に葬られた。衛綰(わん)伝には、景帝(けいてい)が病んでいたあいだに無実の罪で囚われた者が多かったとある。

在位中の出来事(12件)

改元前156年即位に伴う建元(前元元年)。
大赦前156年
大赦前154年
被反乱前154年呉楚七国の乱
大赦前153年
立后前150年
皇太子廃立前150年
改元前149年
大赦前149年
大赦前145年
残り2件を表示
改元前143年
大赦前143年

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。