
前漢第6代統一王朝
景帝劉啓
在位 前157年7月14日〜前141年3月9日(15年242日)
姓劉諱啓
景帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 漢書・景帝紀
- 即位経路
- 漢書・景帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
諸侯王の領地を削ったことから呉楚七国の乱を招き、これを鎮めて、父の文帝とともに文景と称えられた前漢の皇帝である。
即位まで
文帝の太子で、母は竇皇后である。前157年に文帝が没すると、皇帝の位に就いた。
治世と最期
御史大夫の晁錯は諸侯の罪を挙げて領地を削るよう奏上し、呉王は削っても削らなくても反するが、削れば早く反して禍は小さいと景帝に説いた。晁錯の父は、劉氏は安らいでも晁氏が危うくなると言って毒を飲んで死んだ。前154年、呉王濞をはじめ楚・趙・膠西など七国の王が、晁錯を誅するという名目で揃って兵を挙げた。景帝は周亜夫と竇嬰を討伐に送る一方、七国への謝罪として晁錯を斬った。晁錯伝によれば、晁錯は何も知らされないまま朝服で東市に連れ出されて斬られ、のちに鄧公は、呉の反乱は数十年来のもので晁錯の誅殺は名目にすぎないと景帝に述べた。七国は破られ、呉王濞は丹徒へ逃れたが、呉王濞伝によれば身を寄せた東越に欺かれて殺され、ほかの六王はみな自殺した。前150年に皇太子の栄を臨江王に落とし、王氏を皇后に、膠東王の徹を皇太子に立てた。外戚伝によれば、長公主は娘を太子妃にする話を栗姫に断られて栗姫を讒言し、栗姫を皇后に立てるよう求めた大行の奏上に景帝が怒って太子を廃した。臨江王栄は前148年に罪に問われて自殺した。前141年に未央宮で没し、陽陵に葬られた。衛綰伝には、景帝が病んでいたあいだに無実の罪で囚われた者が多かったとある。
在位中の出来事(12件)
改元前156年即位に伴う建元(前元元年)。
大赦前156年
大赦前154年
被反乱前154年呉楚七国の乱
大赦前153年
立后前150年
皇太子廃立前150年
改元前149年
大赦前149年
大赦前145年
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改元前143年
大赦前143年