
後漢第3代統一王朝
章帝劉炟
在位 75年9月5日〜88年4月9日(12年220日)
姓劉諱炟廟号粛宗
章帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書・巻三 粛宗孝章帝紀
- 即位経路
- 後漢書・巻三 粛宗孝章帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
明帝の子で、白虎観に儒者を集めて経書の異同を議させ、寛容な政で知られた後漢の皇帝である。范曄の論は、明帝は察察、章帝は長者という魏の文帝の評を引く。
即位まで
明帝の第五子で、母は賈貴人である。子の無い馬貴人が明帝の命で養い、章帝は馬貴人に養われたので馬氏を外家とした。60年に皇太子となり、若いころから寛容で儒術を好んだ。75年に即位し、馬皇后を皇太后とした。
治世と最期
78年に竇氏を皇后に立てたが、竇憲伝はこれを77年とする。皇后の兄の竇憲が公主の園田を安値で奪ったときは、趙高の指鹿為馬になぞらえて叱ったが、罪は問わなかった。79年、諸儒を白虎観に集めて五経の異同を議させ、自ら裁いて白虎議奏を作らせた。資治通鑑はこの会議を楊終の建言によるとし、班固・賈逵らが加わったと記す。82年、宋貴人の子の皇太子劉慶が清河王に落とされて、梁貴人の子の劉肇が皇太子となり、子の無い竇皇后は宋貴人を呪詛の罪に陥れて自殺させた。本紀は太子の廃立を記すが、宋貴人の死には触れない。83年には梁貴人の父の梁竦が匿名の書で陥れられて誅され、梁貴人姉妹は憂えて死んだ。84年には拷問の酷さを憂えて禁を明らかにし、翌年には妊婦に穀物を与えて夫の算賦を一年免じた。88年に章徳前殿で没し、寝廟を起こさないよう遺詔した。没年齢を後漢書の本紀は三十三とし、資治通鑑は三十一とする。死因はどちらの書にも無く、このサイトの死因が病死となっているのは、通常の崩御として記されていることによる。
在位中の出来事(13件)
大赦75年11月永平18年(章帝即位の年)冬10月丁未、即位に伴う大赦。
改元76年元号を「建初」とする
被反乱76年武陵澧中蛮の反乱(建初元年)
被反乱76年〜77年永昌哀牢夷の反乱(建初元年~二年)
被反乱77年〜78年烧当羌の反乱(建初二年~三年)
大赦78年建初3年春正月己酉、明堂での宗祀の後に大赦。
立后78年建初3年3月癸巳、貴人竇氏(竇皇后、後の章徳竇皇后)を皇后に立てた。
被反乱78年〜80年武陵溇中蛮の反乱(建初三年~五年)
皇太子廃立82年建初7年6月甲寅、皇太子慶(劉慶)を廃して清河王に降格し、皇子肇(劉肇、後の和帝)を新たに皇太子に立てた。
改元84年元号を「元和」とする
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大赦85年元和2年(東巡狩中、丙子詔)、泰山での宗祀に伴う大赦。
被反乱86年〜87年烧当羌の反乱(元和三年~章和元年)
改元87年元号を「章和」とする