
後漢第14代統一王朝
献帝劉協
在位 189年9月28日〜220年12月11日(31年82日)
姓劉諱協
献帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書 巻九 孝獻帝紀
- 即位経路
- 後漢書・本紀第九章 孝霊帝紀/第十章 孝献帝紀/列伝第六十六章 董卓列傳
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
董卓に立てられ、董卓の部将たちや曹操の手を渡り歩いたのち、曹丕に位を譲って後漢を終わらせた皇帝である。
即位まで
霊帝の子で、母の王美人は何皇后に殺された。189年に兄の少帝が即位すると、勃海王、ついで陳留王に封じられた。後漢書の董卓伝は、董卓が陳留王を賢いと見たうえ、陳留王を養った董太后と自分が同族だとして、廃立の意を抱いたと記す。同じ年、董卓は少帝を廃して弘農王とし、陳留王が即位した。献帝紀の即位の記事は董卓が立てたとは書かず、三国志の注に引く献帝紀は、董卓が群臣に廃立を諮り、尚書の盧植が反対したと書く。
治世と最期
190年、董卓は長安への遷都を強行し、洛陽の民を関中へ追い立てた。192年に董卓が除かれると、部将の李傕・郭汜らが長安を落として王允を殺した。195年には李傕と郭汜が争い、献帝は李傕の営に連れ込まれ、郭汜の矢が御前にまで及んだ。同じ年に東へ帰る途に就き、196年の初めに追撃を受けながら夜に黄河を渡って、同じ年に洛陽へ戻ったが、宮室は焼け尽きて百官は野草を採った。同じ年、曹操が尚書の事を握って都を許へ移した。200年には董承らが密詔を受けて曹操を除こうとしたが漏れて滅ぼされ、のちには伏皇后と二人の皇子も曹操に殺された。220年に位を譲り、魏王の曹丕が天子を称して、献帝は山陽公とされた。このとき蜀では献帝が殺されたという噂が伝わり、劉備が喪を発して諡を贈った。山陽公は234年に没し、孝献皇帝と諡された。
在位中の出来事(25件)
改元189年10月元号を「永漢」とする
大赦189年10月即位(九月甲戌)に伴い大赦天下。
被反乱189年10月〜190年1月白波賊の河東・東郡侵寇
改元189年12月光熹・昭寧・永漢の三年号をすべて廃止し、中平六年(旧年号)に復する異例の措置。
改元190年元号を「初平」とする
大赦190年初平元年正月辛亥、大赦天下。
遷都190年雒陽(洛陽) → 長安
大赦191年初平二年正月辛丑、大赦天下。
被反乱191年〜192年青州黄巾の泰山・勃海侵寇から兗州侵寇・寿張投降まで
大赦192年初平三年正月丁丑、大赦天下。
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大赦192年初平三年五月丁酉、大赦天下(董卓誅殺・王允が政務を総攬した後)。
大赦192年初平三年六月己未、大赦天下(李傕・郭汜らが長安を陥落させた直後)。
被反乱192年〜195年李傕・郭汜の乱(長安陥落〜献帝東帰に至る兵乱)
大赦193年初平四年正月丁卯、大赦天下。
改元194年元号を「興平」とする
大赦194年興平元年正月辛酉、改元興平と同時に大赦天下。
被反乱194年馮翊羌の反乱
大赦195年興平二年正月癸丑、大赦天下。
立后195年興平二年四月甲午、貴人伏氏を皇后に立てる(伏寿、伏完の娘)。
改元196年元号を「建安」とする
大赦196年建安元年正月癸酉、安邑にて郊祀・改元建安と同時に大赦天下。
大赦196年建安元年七月丁丑、洛陽到着後、郊祀上帝とともに大赦天下。
遷都196年雒陽(洛陽) → 許(許昌)
立后215年建安二十年正月甲子、貴人曹氏(曹操の娘)を皇后に立てる。
改元220年5月元号を「延康」とする