後漢第6代統一王朝
安帝劉祜
在位 106年9月23日〜125年4月30日(18年224日)
姓劉諱祜廟号恭宗
安帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書・巻五 孝安帝紀
- 即位経路
- 後漢書・巻五 孝安帝紀/巻十下 皇后紀下(和熹鄧皇后)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
幼くして即位して鄧太后に実権を握られ、親政に移ると乳母や宦官の讒言で鄧氏を退け、皇太子を廃した後漢の皇帝である。范曄は、安帝は位にあっても実権は鄧氏に帰していたと評する。
即位まで
章帝の孫で、父は清河孝王慶、母は左姫である。106年に殤帝が没すると、鄧太后と兄の鄧騭が禁中で策を定め、即位した。即位の後も太后が朝廷に臨んだ。
治世と最期
郎中の杜根が帝の親政を求めて上書すると、太后は激怒して殿上で打ち殺させようとしたが、杜根は死を装って逃れた。先零羌の滇零は北地で天子を称し、三輔や益州にまで攻め入った。121年に鄧太后が没して、ようやく親政が始まった。乳母の王聖らはかねて、鄧氏が帝を廃そうとしていると讒言しており、太后の死後に宮人の誣告が出ると、帝は鄧氏の子弟の爵を奪って庶人とし、鄧騭も国へ帰した。鄧騭の最期を、本紀は讒言を受けて自殺したとし、鄧騭伝は子とともに食を断って死んだとする。120年に皇子の保を皇太子に立てたが、124年に廃して済陰王とした。安帝紀は廃した理由を書かない。順帝紀は、王聖と宦官の江京・樊豊が太子の乳母らを讒して殺させ、太子が嘆いたので後の禍を恐れて陥れたとし、皇后紀は閻皇后を主とする。125年、南へ巡る途中の宛で病み、葉で乗輿の中のまま没した。皇后紀によれば、閻皇后と兄弟、江京らは済陰王が立てられるのを恐れて死を伏せ、4日かけて宮に戻ってから喪を発した。死後は閻太后が北郷侯懿を立て、王聖は雁門へ流された。
在位中の出来事(31件)
被反乱106年9月西域諸国の叛乱(対都護任尚)
改元107年元号を「永初」とする
大赦107年永初元年春正月癸酉朔,大赦天下(改元と同時、即位後初の大赦)。
被反乱107年〜118年永初西羌の大乱(先零羌の乱)
大赦109年永初三年正月庚子,皇帝加元服し大赦天下。
被反乱109年〜110年南匈奴単于の反乱
被反乱109年〜110年海賊張伯路の乱
被反乱109年雁門烏桓・鮮卑の反乱
大赦110年永初四年四月丁丑,大赦天下。
被反乱111年〜112年漢陽の杜琦・王信の乱
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大赦112年永初六年六月辛巳,大赦天下。
改元114年元号を「元初」とする
大赦114年元初元年四月丁酉,大赦天下。
立后115年元初二年四月丙午,貴人閻氏を皇后に立てた。
被反乱116年武陵蛮の反乱
被反乱116年〜117年蒼梧・鬱林・合浦蛮夷の反乱
大赦117年元初四年二月乙卯,大赦天下。
被反乱118年〜119年越巂夷等西南夷の反乱
改元120年元号を「永寧」とする
大赦120年永寧元年四月丙寅,皇子保を皇太子に立て、永寧に改元すると同時に大赦天下。
被反乱120年沈氐羌の反乱
被反乱120年〜122年焼当羌の反乱
改元121年元号を「建光」とする
大赦121年建光元年二月癸亥、大赦天下。
大赦121年建光元年七月己卯、建光に改元すると同時に大赦天下。
改元122年元号を「延光」とする
大赦122年延光元年三月丙午、延光に改元すると同時に大赦天下。
被反乱122年虔人羌の反乱
被反乱123年旄牛夷の反乱
皇太子廃立124年延光三年九月丁酉,皇太子保(後の順帝)を廃して済陰王とした。
被反乱124年南匈奴左日逐王の反乱