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後漢(ごかん)第6代統一王朝

安帝(あんてい)劉(りゅう)祜(こ)

在位 106年9月23日〜125年4月30日(18年224日)

姓劉(りゅう)諱祜(こ)廟号恭宗(きょうそう)

安帝の人物データ

生年
94年
在位
  • 106年9月23日〜125年4月30日
在位 18年224日13歳で即位(数え年)・長さは365名中60位
没年
125年4月30日32歳(数え年)267名中長寿順179位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 殤帝後漢安帝は殤帝の従兄弟
次代
  • 少帝後漢少帝は安帝の従兄弟
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
後漢書・巻五 孝安帝紀
即位経路
後漢書・巻五 孝安帝紀/巻十下 皇后紀下(和熹鄧皇后)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

幼くして即位して鄧(とう)太后(たいこう)に実権を握られ、親政に移ると乳母や宦官(かんがん)の讒言(ざんげん)で鄧氏(とうし)を退け、皇太子を廃した後漢(ごかん)の皇帝である。范(はん)曄(よう)は、安帝(あんてい)は位にあっても実権は鄧氏(とうし)に帰していたと評する。

即位まで

章帝(しょうてい)の孫で、父は清河孝王(せいがこうおう)慶、母は左姫(さき)である。106年に殤帝(しょうてい)が没すると、鄧(とう)太后(たいこう)と兄の鄧(とう)騭(しつ)が禁中(きんちゅう)で策を定め、即位した。即位の後も太后が朝廷に臨んだ。

治世と最期

郎中の杜(と)根が帝の親政を求めて上書すると、太后は激怒して殿上で打ち殺させようとしたが、杜(と)根は死を装って逃れた。先零羌(せんれいきょう)の滇零(てんれい)は北地で天子を称し、三輔(さんぽ)や益州(えきしゅう)にまで攻め入った。121年に鄧(とう)太后(たいこう)が没して、ようやく親政が始まった。乳母の王聖らはかねて、鄧氏(とうし)が帝を廃そうとしていると讒言(ざんげん)しており、太后の死後に宮人(きゅうじん)の誣告(ぶこく)が出ると、帝は鄧氏(とうし)の子弟の爵を奪って庶人(しょじん)とし、鄧(とう)騭(しつ)も国へ帰した。鄧(とう)騭(しつ)の最期を、本紀(ほんぎ)は讒言(ざんげん)を受けて自殺したとし、鄧(とう)騭(しつ)伝は子とともに食を断って死んだとする。120年に皇子の保を皇太子に立てたが、124年に廃して済陰王(さいいんおう)とした。安帝(あんてい)紀(き)は廃した理由を書かない。順帝(じゅんてい)紀(き)は、王聖と宦官(かんがん)の江京・樊(はん)豊が太子の乳母らを讒(ざん)して殺させ、太子が嘆いたので後の禍を恐れて陥れたとし、皇后紀(こうごうき)は閻(えん)皇后(こうごう)を主とする。125年、南へ巡る途中の宛で病み、葉で乗輿(じょうよ)の中のまま没した。皇后紀(こうごうき)によれば、閻(えん)皇后(こうごう)と兄弟、江京らは済陰王(さいいんおう)が立てられるのを恐れて死を伏せ、4日かけて宮に戻ってから喪を発した。死後は閻(えん)太后(たいこう)が北郷侯(ほくきょうこう)懿(い)を立て、王聖は雁門(がんもん)へ流された。

在位中の出来事(31件)

被反乱106年9月西域諸国の叛乱(対都護任尚)
改元107年元号を「永初」とする
大赦107年永初元年春正月癸酉朔,大赦天下(改元と同時、即位後初の大赦)。
被反乱107年〜118年永初西羌の大乱(先零羌の乱)
大赦109年永初三年正月庚子,皇帝加元服し大赦天下。
被反乱109年〜110年南匈奴単于の反乱
被反乱109年〜110年海賊張伯路の乱
被反乱109年雁門烏桓・鮮卑の反乱
大赦110年永初四年四月丁丑,大赦天下。
被反乱111年〜112年漢陽の杜琦・王信の乱
残り21件を表示
大赦112年永初六年六月辛巳,大赦天下。
改元114年元号を「元初」とする
大赦114年元初元年四月丁酉,大赦天下。
立后115年元初二年四月丙午,貴人閻氏を皇后に立てた。
被反乱116年武陵蛮の反乱
被反乱116年〜117年蒼梧・鬱林・合浦蛮夷の反乱
大赦117年元初四年二月乙卯,大赦天下。
被反乱118年〜119年越巂夷等西南夷の反乱
改元120年元号を「永寧」とする
大赦120年永寧元年四月丙寅,皇子保を皇太子に立て、永寧に改元すると同時に大赦天下。
被反乱120年沈氐羌の反乱
被反乱120年〜122年焼当羌の反乱
改元121年元号を「建光」とする
大赦121年建光元年二月癸亥、大赦天下。
大赦121年建光元年七月己卯、建光に改元すると同時に大赦天下。
改元122年元号を「延光」とする
大赦122年延光元年三月丙午、延光に改元すると同時に大赦天下。
被反乱122年虔人羌の反乱
被反乱123年旄牛夷の反乱
皇太子廃立124年延光三年九月丁酉,皇太子保(後の順帝)を廃して済陰王とした。
被反乱124年南匈奴左日逐王の反乱

後漢の歴代皇帝

14名の一覧

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