後漢第8代統一王朝
順帝劉保
在位 125年12月16日〜144年9月20日(18年283日)
順帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書 巻六 孝順孝沖孝質帝紀
- 即位経路
- 後漢書・本紀第七章 孝順孝沖孝質帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
順帝(劉保)は後漢の安帝の子で、一度は皇太子を廃されたのち、宦官の孫程らの政変によって擁立された。治世の後半には皇后の父の梁商と、その子の梁冀が大将軍として朝廷の中心に立った。
即位まで
生母の李氏は安帝の寵を受けて劉保を生んだが、閻皇后に毒殺された。124年、劉保は皇太子を廃されて済陰王とされた。順帝紀は安帝の乳母の王聖や江京・樊豊らが陥れたとし、皇后紀は閻皇后が江京・樊豊らとともに讒言したとする。125年に安帝が崩じると、閻太后は兄の閻顕らと策を定めて北郷侯を迎えて立て、劉保は柩に臨むことも許されなかった。北郷侯の名を資治通鑑考異は東観記・続漢書では犢とし、司馬光は袁宏の後漢紀と後漢書の懿に従った。同じ年のうちに北郷侯が薨ずると、閻顕と江京らは喪を伏せ、宮門を閉ざして諸国の王子を改めて召そうとした。宦者伝によれば、孫程は済陰王の側近に、王は嫡統で失徳も無く讒言で廃されたのだと告げて計を持ちかけていた。北郷侯の死から間もない夜、孫程ら十九人の宦官が江京らを斬り、劉保を迎えて即位させた。閻顕の弟の閻景は尚書の郭鎮に斬られ、閻顕らも翌日獄に下されて誅された。
治世と最期
翌126年に閻太后が崩じ、127年には生母の李氏を恭愍皇后と追尊して恭北陵に葬った。128年に梁商の娘と妹を後宮に入れ、132年に娘を皇后に立てた。135年、宦官が養子に爵位を継がせることを初めて認め、同じ年に梁商を大将軍とした。梁統列伝によれば、139年に中常侍の張逵らが梁商と宦官の曹騰らに廃立の謀があると讒言したが、順帝は聞き入れなかった。141年に梁商が薨じると、その子の梁冀が大将軍を継いだ。144年に玉堂前殿で崩じ、遺詔で寝廟を建てさせず、ふだんの衣服で納棺させた。後漢書の順帝紀と資治通鑑は、順帝の病や死因を記していない。このサイトの死因が病死となっているのは、殺害や不審な死を示す記事が無く、宮中の前殿で崩じたことによる。