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後漢(ごかん)第8代統一王朝

順帝(じゅんてい)劉保(りゅうほ)

在位 125年12月16日〜144年9月20日(18年283日)

姓劉(りゅう)諱保(ほ)廟号敬宗(けいそう)

順帝の人物データ

生年
115年
在位
  • 125年12月16日〜144年9月20日
在位 18年283日11歳で即位(数え年)・長さは365名中59位
没年
144年9月20日30歳(数え年)267名中長寿順187位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代
  • 沖帝後漢沖帝は順帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
後漢書 巻六 孝順孝沖孝質帝紀
即位経路
後漢書・本紀第七章 孝順孝沖孝質帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

順帝(じゅんてい)(劉保(りゅうほ))は後漢(ごかん)の安帝(あんてい)の子で、一度は皇太子を廃されたのち、宦官(かんがん)の孫程らの政変によって擁立された。治世の後半には皇后の父の梁(りょう)商と、その子の梁(りょう)冀(き)が大将軍(だいしょうぐん)として朝廷の中心に立った。

即位まで

生母の李氏(りし)は安帝(あんてい)の寵(ちょう)を受けて劉保(りゅうほ)を生んだが、閻(えん)皇后(こうごう)に毒殺された。124年、劉保(りゅうほ)は皇太子を廃されて済陰王(さいいんおう)とされた。順帝(じゅんてい)紀(き)は安帝(あんてい)の乳母の王聖や江京・樊(はん)豊らが陥れたとし、皇后紀(こうごうき)は閻(えん)皇后(こうごう)が江京・樊(はん)豊らとともに讒言(ざんげん)したとする。125年に安帝(あんてい)が崩じると、閻(えん)太后(たいこう)は兄の閻(えん)顕らと策を定めて北郷侯(ほくきょうこう)を迎えて立て、劉保(りゅうほ)は柩(ひつぎ)に臨むことも許されなかった。北郷侯(ほくきょうこう)の名を資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は東観記(とうかんき)・続漢書(ぞくかんじょ)では犢(とく)とし、司馬(しば)光は袁(えん)宏(こう)の後漢(ごかん)紀(き)と後漢(ごかん)書の懿(い)に従った。同じ年のうちに北郷侯(ほくきょうこう)が薨(こう)ずると、閻(えん)顕と江京らは喪を伏せ、宮門を閉ざして諸国の王子を改めて召そうとした。宦者(かんじゃ)伝によれば、孫程は済陰王(さいいんおう)の側近に、王は嫡統(ちゃくとう)で失徳も無く讒言(ざんげん)で廃されたのだと告げて計を持ちかけていた。北郷侯(ほくきょうこう)の死から間もない夜、孫程ら十九人の宦官(かんがん)が江京らを斬り、劉保(りゅうほ)を迎えて即位させた。閻(えん)顕の弟の閻(えん)景は尚書の郭鎮に斬られ、閻(えん)顕らも翌日獄に下されて誅(ちゅう)された。

治世と最期

翌126年に閻(えん)太后(たいこう)が崩じ、127年には生母の李氏(りし)を恭愍皇后(きょうびんこうごう)と追尊(ついそん)して恭北陵(きょうほくりょう)に葬った。128年に梁(りょう)商の娘と妹を後宮に入れ、132年に娘を皇后に立てた。135年、宦官(かんがん)が養子に爵位を継がせることを初めて認め、同じ年に梁(りょう)商を大将軍(だいしょうぐん)とした。梁(りょう)統列伝(れつでん)によれば、139年に中常侍(ちゅうじょうじ)の張逵(き)らが梁(りょう)商と宦官(かんがん)の曹騰らに廃立の謀があると讒言(ざんげん)したが、順帝(じゅんてい)は聞き入れなかった。141年に梁(りょう)商が薨(こう)じると、その子の梁(りょう)冀(き)が大将軍(だいしょうぐん)を継いだ。144年に玉堂(ぎょくどう)前殿で崩じ、遺詔(いしょう)で寝廟(しんびょう)を建てさせず、ふだんの衣服で納棺(のうかん)させた。後漢(ごかん)書の順帝(じゅんてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は、順帝(じゅんてい)の病や死因を記していない。このサイトの死因が病死となっているのは、殺害や不審な死を示す記事が無く、宮中の前殿で崩じたことによる。

在位中の出来事(35件)

被反乱125年12月16日〜125年12月18日閻顕兄弟の武力反撃(即位直後のクーデター未遂)
改元126年元号を「永建」とする
大赦126年永建元年春正月甲寅。
被反乱126年陇西钟羌の叛乱(第一次)
大赦129年永建四年春正月丙寅。
改元132年元号を「陽嘉」とする
大赦132年陽嘉元年三月庚寅。
立后132年陽嘉元年春正月乙巳。
大赦134年陽嘉三年五月戊戌。
被反乱134年〜135年钟羌の叛乱(第二次、陇西・汉阳)
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被反乱134年武都塞上屯羌等の乱
被反乱134年益州盗賊の乱
改元136年元号を「永和」とする
大赦136年永和元年春正月己巳。
被反乱136年〜138年日南(象林)蛮・九真交阯の乱
被反乱137年武陵蛮の叛乱
被反乱137年白马羌の蜂起
被反乱137年江夏盗賊の乱
被反乱138年九江贼蔡伯流の乱
被反乱138年吴郡丞羊珍の反乱
被反乱138年〜139年烧当羌の叛乱(第一次、金城)
大赦139年永和四年夏四月戊午。
被反乱140年〜143年南匈奴句龙吾斯・车纽の叛乱
被反乱140年〜141年且冻羌の叛乱
被反乱141年恐唐(巩唐)羌の叛乱
改元142年元号を「漢安」とする
大赦142年漢安元年春正月癸巳。
被反乱142年广陵贼张婴の叛乱(第一次)
被反乱143年烧何羌の叛乱
被反乱143年烧当羌の叛乱(第二次、阿阳)
被反乱144年2月〜144年9月杨・徐盗贼(范容・周生等)の乱
被反乱144年5月南郡・江夏盗贼の乱
被反乱144年5月叛羌の乱(卫琚追討)
改元144年6月3日元号を「建康」とする
大赦144年6月3日建康元年夏四月辛巳。

後漢の歴代皇帝

14名の一覧

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