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後漢(ごかん)第4代統一王朝

和帝(わてい)劉(りゅう)肇(ちょう)

在位 88年4月9日〜106年2月13日(17年314日)

姓劉(りゅう)諱肇(ちょう)廟号穆宗(ぼくそう)

和帝の人物データ

生年
79年
在位
  • 88年4月9日〜106年2月13日
在位 17年314日10歳で即位(数え年)・長さは365名中65位
没年
106年2月13日27歳(数え年)267名中長寿順201位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 章帝後漢和帝は章帝の子
次代
  • 殤帝後漢殤帝は和帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
後漢書・巻四 孝和孝殤帝紀
即位経路
後漢書・巻四 孝和孝殤帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

和帝(わてい)(劉(りゅう)肇(ちょう))は後漢(ごかん)の章帝(しょうてい)の子で、幼くして即位し、竇(とう)太后(たいこう)と外戚(がいせき)の竇(とう)憲に政を握られたが、92年に竇氏(とうし)を除いて自ら政を執った。宦者(かんじゃ)伝によれば、このとき宦官(かんがん)の鄭(てい)衆が誅殺(ちゅうさつ)を謀り、宦官(かんがん)が権を用いる始まりとなった。

即位まで

劉(りゅう)肇(ちょう)は生まれるとすぐ竇(とう)皇后(こうごう)に引き取られてその子として養われ、生母の梁貴人(りょうきじん)は、立太子ののちに竇(とう)皇后(こうごう)の讒言(ざんげん)で一族が罪に問われ、憂いのうちに死んだ。竇(とう)皇后(こうごう)は宋(そう)貴人(きじん)も自殺に追い込んでその子の皇太子(こうたいし)劉慶(りゅうけい)を廃させ、82年に劉(りゅう)肇(ちょう)が皇太子に立てられた。88年に即位し、竇(とう)太后(たいこう)が朝に臨んで、兄の竇(とう)憲を内輔(ないほ)に据えた。

治世と最期

89年、竇(とう)憲は北匈奴(ほくきょうど)を大破し、燕然山(えんぜんざん)に登って石に功を刻んだ。92年、劉(りゅう)肇(ちょう)は竇(とう)憲の党を捕らえて獄死させ、竇(とう)憲から大将軍(だいしょうぐん)の印綬(いんじゅ)を取り上げて、のちに兄弟を自殺に追い込んだ。誰が謀反を図ったかを、本紀(ほんぎ)は竇(とう)憲とし、竇(とう)融伝は鄧(とう)畳や郭挙らとする。宦者(かんじゃ)伝は鄭(てい)衆が首謀して誅(ちゅう)したとし、章帝(しょうてい)八王(はちおう)伝は兄の劉慶(りゅうけい)がひそかに外戚(がいせき)伝を取り寄せ、鄭(てい)衆への取り次ぎをしたとするが、本紀(ほんぎ)に鄭(てい)衆の名は無い。以後は自ら万機(ばんき)を執り、災異のたびに公卿(こうけい)に政の得失を問うた。97年に竇(とう)太后(たいこう)が崩じると、梁貴人(りょうきじん)の姉が上書して貴人の非業の死を訴え、劉(りゅう)肇(ちょう)は生母を皇太后に追尊(ついそん)したが、竇(とう)太后(たいこう)の尊号(そんごう)を貶(へん)めることは退けた。資治通鑑(しじつがん)は、劉(りゅう)肇(ちょう)が梁氏(りょうし)の出であることは宮中で秘されていたとし、劉(りゅう)肇(ちょう)は梁貴人(りょうきじん)の姉に会って初めて貴人の非業の死の次第を知ったとする。102年に陰皇后(こうごう)を廃し、鄧氏(とうし)を皇后に立てた。106年、章徳前殿(しょうとくぜんでん)で崩じた(後漢(ごかん)紀(き)は嘉徳殿(かとくでん)とする)。和帝(わてい)紀(き)は崩御(ほうぎょ)の記事に続けて皇子の劉(りゅう)隆(りゅう)を皇太子に立てたと書くが、後漢(ごかん)書の皇后紀(こうごうき)と後漢(ごかん)紀(き)・資治通鑑(しじつがん)は、崩御(ほうぎょ)ののち鄧(とう)皇后(こうごう)が民間で養われていた生後百日あまりの劉(りゅう)隆(りゅう)を迎えて立てたとする。後漢(ごかん)書の本紀(ほんぎ)・後漢(ごかん)紀(き)・資治通鑑(しじつがん)の崩御(ほうぎょ)の記事は、病や死因を記さない。

在位中の出来事(21件)

改元89年元号を「永元」とする
大赦90年永元二年春正月丁丑、大赦天下。
被反乱92年〜93年武陵零陵澧中蛮の乱
被反乱92年〜93年烧当羌の金城侵寇
大赦93年永元五年春正月乙亥、宗祀五帝於明堂の際に大赦天下。
被反乱93年南単于安国の叛乱
被反乱93年於除鞬の叛乱
被反乱94年逢侯の叛乱
被反乱94年武陵溇中蛮の乱
立后96年永元八年春二月己丑、貴人陰氏を皇后に立てる。
残り11件を表示
被反乱96年南匈奴右温禺犊王の叛乱
被反乱96年〜97年車師後王の叛乱
被反乱97年烧当羌の隴西侵寇
大赦99年永元十一年夏四月丙寅、大赦天下。
被反乱100年日南象林蛮夷の反乱
被反乱100年〜101年烧当羌の再叛
被反乱101年〜102年巫蛮の南郡侵寇
大赦102年永元十四年三月戊辰、辟雍への行幸・饗射の際に大赦天下。
立后102年永元十四年冬十月辛卯、貴人鄧氏を皇后に立てる(陰皇后廃后後の再冊立)。
改元105年元号を「元興」とする
大赦105年元興元年夏四月庚午、大赦天下と同時に改元元興。

後漢の歴代皇帝

14名の一覧

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