後漢第4代統一王朝
和帝劉肇
在位 88年4月9日〜106年2月13日(17年314日)
和帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書・巻四 孝和孝殤帝紀
- 即位経路
- 後漢書・巻四 孝和孝殤帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
和帝(劉肇)は後漢の章帝の子で、幼くして即位し、竇太后と外戚の竇憲に政を握られたが、92年に竇氏を除いて自ら政を執った。宦者伝によれば、このとき宦官の鄭衆が誅殺を謀り、宦官が権を用いる始まりとなった。
即位まで
劉肇は生まれるとすぐ竇皇后に引き取られてその子として養われ、生母の梁貴人は、立太子ののちに竇皇后の讒言で一族が罪に問われ、憂いのうちに死んだ。竇皇后は宋貴人も自殺に追い込んでその子の皇太子劉慶を廃させ、82年に劉肇が皇太子に立てられた。88年に即位し、竇太后が朝に臨んで、兄の竇憲を内輔に据えた。
治世と最期
89年、竇憲は北匈奴を大破し、燕然山に登って石に功を刻んだ。92年、劉肇は竇憲の党を捕らえて獄死させ、竇憲から大将軍の印綬を取り上げて、のちに兄弟を自殺に追い込んだ。誰が謀反を図ったかを、本紀は竇憲とし、竇融伝は鄧畳や郭挙らとする。宦者伝は鄭衆が首謀して誅したとし、章帝八王伝は兄の劉慶がひそかに外戚伝を取り寄せ、鄭衆への取り次ぎをしたとするが、本紀に鄭衆の名は無い。以後は自ら万機を執り、災異のたびに公卿に政の得失を問うた。97年に竇太后が崩じると、梁貴人の姉が上書して貴人の非業の死を訴え、劉肇は生母を皇太后に追尊したが、竇太后の尊号を貶めることは退けた。資治通鑑は、劉肇が梁氏の出であることは宮中で秘されていたとし、劉肇は梁貴人の姉に会って初めて貴人の非業の死の次第を知ったとする。102年に陰皇后を廃し、鄧氏を皇后に立てた。106年、章徳前殿で崩じた(後漢紀は嘉徳殿とする)。和帝紀は崩御の記事に続けて皇子の劉隆を皇太子に立てたと書くが、後漢書の皇后紀と後漢紀・資治通鑑は、崩御ののち鄧皇后が民間で養われていた生後百日あまりの劉隆を迎えて立てたとする。後漢書の本紀・後漢紀・資治通鑑の崩御の記事は、病や死因を記さない。