
前漢第5代統一王朝
文帝劉恒
在位 前180年11月14日〜前157年7月6日(22年240日)
文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)
- 即位経路
- 史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
呂氏が誅されたのち代王から迎えられて即位し、肉刑や田の租税を除き、匈奴と和親して倹約に努めた前漢の皇帝である。漢書の賛は、宮室や車騎を増やさず、陵も瓦器だけで飾らなかったと記す。
即位まで
高祖の中子で、母は薄姫であり、前196年に代王に立てられた。呂太后が没して呂氏が乱を謀ると、陳平・周勃らがこれを誅し、代王を立てようと図った。迎えの使者に対して、郎中令の張武らは大臣を信用できないので病と称して行くなと勧めたが、中尉の宋昌は劉氏の天下は揺るがないとして受けるよう勧めた。代王は卜して大横の兆を得、さらに母の弟の薄昭に周勃の真意を確かめさせてから長安へ向かった。渭橋で周勃が天子の璽を差し出しても、代王は代邸に着いてから議すると言って受けなかった。群臣が少帝らは恵帝の子ではないと上言すると、代王は西向きに三度、南向きに二度辞退したのちに即位した。
治世と最期
前179年に太子の母の竇氏が皇后に立てられた。前178年には誹謗・妖言の罪を除き、その年の田租の半分を免じた。前177年、文帝が自ら匈奴を撃とうと代へ向かったと聞いて済北王劉興居が反し、捕らえられて自殺した。前167年に肉刑を除いた。刑法志によれば、刑に当たった斉の淳于公の娘の緹縈が、官婢となって父の刑を贖いたいと上書したのを文帝が憐れんだことによる。その上書の年を刑法志は即位十三年とし、史記の扁鵲倉公列伝は文帝四年とする。同じ年には田の租税そのものを除いた。前167年の冬から翌年にかけて匈奴が辺境を侵すと、群臣が諫めても自ら出陣しようとしたが、薄太后に強く止められて取りやめた。前162年には匈奴と和親し、単于と兄弟の義を結んだと詔した。前157年に未央宮で没し、遺詔で厚葬と重い服喪を退け、吏民の喪を三日で終えさせた。年齢は漢書の本紀の本文に無く、史記集解は徐広の説として四十七歳とし、漢書の注は臣瓚の説として四十六歳とする。