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文帝の肖像

前漢(ぜんかん)第5代統一王朝

文帝(ぶんてい)劉(りゅう)恒(こう)

在位 前180年11月14日〜前157年7月6日(22年240日)

姓劉(りゅう)諱恒(こう)廟号太宗(たいそう)

文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前180年11月14日〜前157年7月6日
在位 22年240日長さは365名中49位
没年
前157年7月6日
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 後少帝前漢文帝は後少帝の叔父(異説あり)
次代
  • 景帝前漢景帝は文帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)
即位経路
史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

呂氏(りょし)が誅(ちゅう)されたのち代王(だいおう)から迎えられて即位し、肉刑(にくけい)や田の租税を除き、匈奴(きょうど)と和親して倹約に努めた前漢(ぜんかん)の皇帝である。漢書(かんじょ)の賛(さん)は、宮室や車騎を増やさず、陵も瓦器(がき)だけで飾らなかったと記す。

即位まで

高祖(こうそ)の中子で、母は薄姫(はくき)であり、前196年に代王(だいおう)に立てられた。呂太后(たいこう)が没して呂氏(りょし)が乱を謀ると、陳平(ちんぺい)・周勃(しゅうぼつ)らがこれを誅(ちゅう)し、代王(だいおう)を立てようと図った。迎えの使者に対して、郎中令(ろうちゅうれい)の張武(ちょうぶ)らは大臣を信用できないので病と称して行くなと勧めたが、中尉の宋昌(そうしょう)は劉氏(りゅうし)の天下は揺るがないとして受けるよう勧めた。代王(だいおう)は卜(ぼく)して大横(たいおう)の兆を得、さらに母の弟の薄昭(はくしょう)に周勃(しゅうぼつ)の真意を確かめさせてから長安(ちょうあん)へ向かった。渭橋(いきょう)で周勃(しゅうぼつ)が天子の璽を差し出しても、代王(だいおう)は代邸(だいてい)に着いてから議すると言って受けなかった。群臣が少帝(しょうてい)らは恵帝(けいてい)の子ではないと上言(じょうげん)すると、代王(だいおう)は西向きに三度、南向きに二度辞退したのちに即位した。

治世と最期

前179年に太子の母の竇氏(とうし)が皇后に立てられた。前178年には誹謗(ひぼう)・妖言の罪を除き、その年の田租の半分を免じた。前177年、文帝(ぶんてい)が自ら匈奴(きょうど)を撃とうと代へ向かったと聞いて済北王(さいほくおう)劉興居(りゅうこうきょ)が反し、捕らえられて自殺した。前167年に肉刑(にくけい)を除いた。刑法志(けいほうし)によれば、刑に当たった斉の淳于公(じゅんうこう)の娘の緹縈(ていえい)が、官婢(かんぴ)となって父の刑を贖(あがな)いたいと上書したのを文帝(ぶんてい)が憐(あわ)れんだことによる。その上書の年を刑法志(けいほうし)は即位十三年とし、史記(しき)の扁鵲(へんじゃく)倉公(そうこう)列伝(れつでん)は文帝(ぶんてい)四年とする。同じ年には田の租税そのものを除いた。前167年の冬から翌年にかけて匈奴(きょうど)が辺境を侵すと、群臣が諫(いさ)めても自ら出陣しようとしたが、薄太后に強く止められて取りやめた。前162年には匈奴(きょうど)と和親し、単于(ぜんう)と兄弟の義を結んだと詔した。前157年に未央宮(びおうきゅう)で没し、遺詔(いしょう)で厚葬と重い服喪を退け、吏民(りみん)の喪を三日で終えさせた。年齢は漢書(かんじょ)の本紀(ほんぎ)の本文に無く、史記(しき)集解(しっかい)は徐広の説として四十七歳とし、漢書(かんじょ)の注は臣瓚(しんさん)の説として四十六歳とする。

在位中の出来事(8件)

改元前180年10月即位に伴う建元(元年)。
大赦前180年10月即位後まもなく(元年冬十月)大赦。
立后前179年元年三月、皇太子(劉啟)の母である竇氏を皇后に立てる。
被反乱前177年済北王劉興居の乱
大赦前173年文帝七年夏四月の赦。
大赦前165年十五年(前165年)、大赦とあわせ名山大川の祭祀の再興を命じる。
改元前164年
大赦前160年後元四年五月、大赦し官奴婢を庶人とする。

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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