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前漢(ぜんかん)第3代統一王朝

前少帝(ぜんしょうてい)

在位 前188年10月19日〜前184年6月15日(3年240日)

姓劉(りゅう)

前少帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前188年10月19日〜前184年6月15日
在位 3年240日長さは365名中208位
没年
不詳
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 恵帝前漢前少帝は恵帝の子(異説あり)
次代
  • 後少帝前漢後少帝は前少帝の弟(異説あり)

出典(死因・即位経路)

死因
史記・呂太后本紀
即位経路
史記・呂太后本紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

恵帝(けいてい)の皇后の子として立てられて幼くして位に就き、自分の出自を知って怨みを口にしたために廃された前漢(ぜんかん)の皇帝である。

即位まで

恵帝(けいてい)の張皇后(こうごう)には子が無く、呂太后(たいこう)は後宮の美人が産んだ男子を皇后の子と名乗らせて太子に立てた。史記(しき)の呂太后(りょたいこう)本紀(ほんぎ)と漢書(かんじょ)の外戚(がいせき)伝によれば、皇后は懐妊を装い、生母は殺された。どの書も前少帝(ぜんしょうてい)を恵帝(けいてい)の後宮の美人の子とし、別の父を名指す書は無いが、呂氏(りょし)が滅んだのちの大臣たちは、呂太后(たいこう)が他人の子を恵帝(けいてい)の子と偽って跡継ぎや諸王に立てたと言い合っている。恵帝(けいてい)が没すると太子が位に就き、幼いので呂太后(たいこう)が朝廷に臨んで政治を執った。

治世と最期

成長した前少帝(ぜんしょうてい)は、生母が殺され自分が皇后の実子でないことを知り、なぜ母を殺したのか、大人になったら変を起こすと口にした。呂太后(たいこう)は乱を恐れて永巷(えいこう)に幽閉し、病が重いと称して側近にも会わせなかった。漢書(かんじょ)高后紀(こうこうき)の詔は、皇帝が久しく病んで正気を失い宗廟(そうびょう)を継げないとして、代わりを立てさせた。最期の書き方は書ごとに違う。史記(しき)と資治通鑑(しじつがん)は呂太后(たいこう)が幽閉したまま殺したと書き、漢書(かんじょ)の外戚(がいせき)伝は幽閉されたまま死んだとして殺害の語を使わず、漢書(かんじょ)高后紀(こうこうき)は死そのものを記さない。

在位中の出来事(1件)

大赦日付不詳恵帝崩御後、太子(前少帝)が皇帝に即位した際の大赦。

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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