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前漢(ぜんかん)第14代統一王朝

平帝(へいてい)劉(りゅう)衎(かん)

在位 前1年10月17日〜6年2月(5年108日)

姓劉(りゅう)諱衎(かん)廟号元(げん)宗(そう)

平帝の人物データ

生年
前9年
在位
  • 前1年10月17日〜6年2月
在位 5年108日9歳で即位(数え年)・長さは365名中185位
没年
6年2月14歳(数え年)267名中長寿順257位
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
擁立
先代
  • 哀帝前漢平帝は哀帝の従兄弟
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
漢書・平帝紀/王莽傳上
即位経路
漢書・平帝紀/王莽傳上

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

幼くして迎えられて位に就き、政治はすべて王莽(おうもう)が執った前漢(ぜんかん)の皇帝である。王莽(おうもう)が毒を盛ったという告発は漢書(かんじょ)にも見えるが、地の文で毒殺と書くのは資治通鑑(しじつがん)である。

即位まで

元帝(げんてい)の孫で中山孝王(ちゅうざんこうおう)の子として、幼くして中山王(ちゅうざんおう)を継いだ。前1年に哀帝(あいてい)が没すると、大司馬(しば)となった王莽(おうもう)が使者を送って中山王(ちゅうざんおう)を迎え、成帝(せいてい)の後継ぎとして即位させた。

治世と最期

王莽(おうもう)は平帝(へいてい)の母の衛姫(えいき)と外戚(がいせき)の衛氏(えいし)を中山(ちゅうざん)に留めて都に来させず、自らは安漢公(あんかんこう)の号を受けた。3年には王莽(おうもう)の子の宇が衛氏(えいし)と謀ったため、宇は獄で死に、衛氏(えいし)は誅(ちゅう)された。翌年、王莽(おうもう)の娘が皇后に立てられた。6年の初めに未央宮(びおうきゅう)で没した。漢書(かんじょ)の平帝(へいてい)紀(き)は、発作のたびに気が逆上して言葉が出なくなったと没後の詔で述べるだけで、毒殺には触れない。王莽(おうもう)伝によれば、平帝(へいてい)が病むと王莽(おうもう)は身代わりを願う祈りの文を作り、金の箱に納めた。のちに翟義(てきぎ)が王莽(おうもう)に対して挙兵したとき、檄文(げきぶん)で王莽(おうもう)が平帝(へいてい)を毒殺したと訴え、漢兵が同じことを言い立てると、王莽(おうもう)はこの文を開いて群臣に見せた。資治通鑑(しじつがん)は、王莽(おうもう)が臘日(ろうじつ)に献じた椒酒(しょうしゅ)に毒を入れ、そのあと平帝(へいてい)が病んだと地の文で書いている。

在位中の出来事(7件)

大赦前1年10月元寿2年9月辛酉、平帝(中山王)即位時。
改元1年元号を「元始」とする
大赦1年元始元年5月丁巳朔。
被反乱3年陽陵任横の乱
大赦4年元始4年2月丁未。
立后4年元始4年2月丁未、王氏(王莽の娘)を皇后に立てる。
大赦6年元始5年12月丙午、平帝崩御時。

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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