前漢第8代統一王朝
昭帝劉弗陵
在位 前87年3月30日〜前74年6月5日(13年70日)
姓劉諱弗陵
昭帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 漢書・昭帝紀
- 即位経路
- 漢書・昭帝紀/霍光金日磾傳
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
武帝の末子として幼くして位に就き、霍光が政治を執った前漢の皇帝である。漢書の賛は、武帝の時代の疲弊のあとに賦役を軽くして民を休ませたと評している。
即位まで
母は趙婕妤である。戻太子が敗れ、燕王旦と広陵王胥が驕っていたため、病の重い武帝は前87年に昭帝を太子に立て、霍光に幼い皇帝を補佐させる遺詔を残した。昭帝紀は立太子の翌日に武帝が没したとし、武帝紀は2日後とするが、昭帝は武帝の没した翌日に即位した。
治世と最期
即位後は大将軍の霍光が政治を執り、金日磾と上官桀が補佐した。前81年には各地の賢良・文学に民の苦しみを問わせて塩と鉄の専売の廃止を議論させ、酒の専売をやめた。匈奴に19年留め置かれた蘇武が帰国したのもこの年である。前80年、鄂邑長公主と燕王旦、上官桀父子、桑弘羊の謀反が発覚して誅された。これより前、14歳の昭帝は霍光を陥れる偽の書を見抜き、以後も霍光を誹る者は罰すると言った。前74年に未央宮で没し、子は無かった。漢書の本紀は死因を記さない。杜延年伝には、昭帝が晩年に病に伏し、天下の名医を召して杜延年が薬の処方をつかさどったとあり、このサイトの死因が病死となっているのはこの記述による。外戚伝によれば、霍光は外孫の上官皇后に寵愛を独占させて子を得させたいと望み、昭帝がときおり体調を崩すと、側近や医者はその意を迎えて後宮の女性を遠ざけるよう勧めた。
在位中の出来事(16件)
大赦前87年7月昭帝即位(後元二年)夏六月、赦天下。
改元前86年元号を「始元」とする
大赦前86年始元元年秋七月、赦天下、民百戸に牛酒を賜う。
被反乱前86年益州蛮夷の反乱(第一次、廉頭・姑繒ら)
大赦前83年始元四年春三月甲寅、上官氏を皇后に立てるのに伴い赦天下。
立后前83年始元四年春三月甲寅、上官安(上官桀の孫、霍光の外孫)の娘・上官氏を皇后に立てる。
被反乱前83年〜前82年益州蛮夷の反乱(第二次、姑繒・葉榆の再反)
改元前80年元号を「元鳳」とする
大赦前80年元鳳元年夏六月、赦天下。
被反乱前80年武都氐人の反乱
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大赦前79年元鳳二年六月、赦天下。
被反乱前78年〜前77年遼東烏桓の反乱
大赦前77年元鳳四年六月、赦天下。
大赦前75年元鳳六年夏、赦天下。
被反乱前75年烏桓の再犯塞
改元前74年元号を「元平」とする