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前漢(ぜんかん)第8代統一王朝

昭帝(しょうてい)劉(りゅう)弗陵(ふつりょう)

在位 前87年3月30日〜前74年6月5日(13年70日)

姓劉(りゅう)諱弗陵(ふつりょう)

昭帝の人物データ

生年
前94年
在位
  • 前87年3月30日〜前74年6月5日
在位 13年70日8歳で即位(数え年)・長さは365名中100位
没年
前74年6月5日21歳(数え年)267名中長寿順228位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 武帝前漢昭帝は武帝の子
次代
  • 廃帝前漢廃帝は昭帝の甥

出典(死因・即位経路)

死因
漢書・昭帝紀
即位経路
漢書・昭帝紀/霍光金日磾傳

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

武帝(ぶてい)の末子として幼くして位に就き、霍光(かくこう)が政治を執った前漢(ぜんかん)の皇帝である。漢書(かんじょ)の賛(さん)は、武帝(ぶてい)の時代の疲弊のあとに賦役(ふえき)を軽くして民を休ませたと評している。

即位まで

母は趙婕妤(ちょうしょうよ)である。戻太子(れいたいし)が敗れ、燕王旦(えんおうたん)と広陵(こうりょう)王胥(しょ)が驕(おご)っていたため、病の重い武帝(ぶてい)は前87年に昭帝(しょうてい)を太子に立て、霍光(かくこう)に幼い皇帝を補佐させる遺詔(いしょう)を残した。昭帝(しょうてい)紀(き)は立太子の翌日に武帝(ぶてい)が没したとし、武帝(ぶてい)紀(き)は2日後とするが、昭帝(しょうてい)は武帝(ぶてい)の没した翌日に即位した。

治世と最期

即位後は大将軍(だいしょうぐん)の霍光(かくこう)が政治を執り、金日磾(きんじつてい)と上官桀(じょうかんけつ)が補佐した。前81年には各地の賢良(けんりょう)・文学に民の苦しみを問わせて塩と鉄の専売の廃止を議論させ、酒の専売をやめた。匈奴(きょうど)に19年留め置かれた蘇武(そぶ)が帰国したのもこの年である。前80年、鄂邑(がくゆう)長公主(ちょうこうしゅ)と燕王旦(えんおうたん)、上官桀(じょうかんけつ)父子、桑弘羊(そうこうよう)の謀反が発覚して誅(ちゅう)された。これより前、14歳の昭帝(しょうてい)は霍光(かくこう)を陥れる偽の書を見抜き、以後も霍光(かくこう)を誹(そし)る者は罰すると言った。前74年に未央宮(びおうきゅう)で没し、子は無かった。漢書(かんじょ)の本紀(ほんぎ)は死因を記さない。杜(と)延年(えんねん)伝には、昭帝(しょうてい)が晩年に病に伏し、天下の名医を召して杜(と)延年(えんねん)が薬の処方をつかさどったとあり、このサイトの死因が病死となっているのはこの記述による。外戚(がいせき)伝によれば、霍光(かくこう)は外孫の上官(じょうかん)皇后に寵愛(ちょうあい)を独占させて子を得させたいと望み、昭帝(しょうてい)がときおり体調を崩すと、側近や医者はその意を迎えて後宮の女性を遠ざけるよう勧めた。

在位中の出来事(16件)

大赦前87年7月昭帝即位(後元二年)夏六月、赦天下。
改元前86年元号を「始元」とする
大赦前86年始元元年秋七月、赦天下、民百戸に牛酒を賜う。
被反乱前86年益州蛮夷の反乱(第一次、廉頭・姑繒ら)
大赦前83年始元四年春三月甲寅、上官氏を皇后に立てるのに伴い赦天下。
立后前83年始元四年春三月甲寅、上官安(上官桀の孫、霍光の外孫)の娘・上官氏を皇后に立てる。
被反乱前83年〜前82年益州蛮夷の反乱(第二次、姑繒・葉榆の再反)
改元前80年元号を「元鳳」とする
大赦前80年元鳳元年夏六月、赦天下。
被反乱前80年武都氐人の反乱
残り6件を表示
大赦前79年元鳳二年六月、赦天下。
被反乱前78年〜前77年遼東烏桓の反乱
大赦前77年元鳳四年六月、赦天下。
大赦前75年元鳳六年夏、赦天下。
被反乱前75年烏桓の再犯塞
改元前74年元号を「元平」とする

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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