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明帝の肖像

後漢(ごかん)第2代統一王朝

明帝(めいてい)劉荘(りゅうそう)

在位 57年3月29日〜75年9月5日(18年164日)

姓劉(りゅう)諱荘(そう)廟号顕宗(けんそう)

明帝の人物データ

生年
28年
在位
  • 57年3月29日〜75年9月5日
在位 18年164日30歳で即位(数え年)・長さは365名中62位
没年
75年9月5日48歳(数え年)267名中長寿順88位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
次代
  • 章帝後漢章帝は明帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
後漢書・巻二 顕宗孝明帝紀
即位経路
後漢書・巻二 顕宗孝明帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

明帝(めいてい)(劉荘(りゅうそう))は後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)の第四子で、父の崩御(ほうぎょ)と同じ日に即位した二代目の皇帝である。治世には異母の兄弟である楚王(そおう)劉(りゅう)英の謀反事件が起こり、連座(れんざ)した者は数千人に及んだ。

即位まで

母は陰皇后(こうごう)で、劉荘(りゅうそう)は39年に東海公(とうかいこう)、41年に王となった。はじめ皇太子は郭皇后(こうごう)の子の劉(りゅう)彊(きょう)だったが、東海(とうかい)恭王(きょうおう)劉(りゅう)彊(きょう)伝によれば、母が41年に廃されると劉(りゅう)彊(きょう)は不安になり、藩国(はんこく)に退くことを何度も願った。43年、光武帝(こうぶてい)は詔して劉(りゅう)彊(きょう)を東海王(とうかいおう)とし、皇后の子でそれまで東海王(とうかいおう)だった劉(りゅう)陽を皇太子に立てて、名を荘と改めさせた。57年に光武帝(こうぶてい)が南宮前殿(なんきゅうぜんでん)で崩じると、劉荘(りゅうそう)はその日のうちに即位した。

治世と最期

翌58年、もとの皇太子の劉(りゅう)彊(きょう)が薨(こう)じた。楚王(そおう)劉(りゅう)英は晩年に黄老(こうろう)と浮屠(ふと)の祭祀(さいし)を好み、65年には明帝(めいてい)が詔でこれを咎(とが)めずに贖罪(しょくざい)の絹を返させている。劉(りゅう)英はやがて燕(えん)広に謀反を告発され、明帝(めいてい)は誅殺(ちゅうさつ)に忍びず、王位を廃して丹陽(たんよう)の涇県(けいけん)へ移した。劉(りゅう)英は翌71年に自殺したが、楚(そ)の獄はその後も数年続き、親戚や諸侯から州郡の豪傑、取り調べの吏までが巻き込まれた。明帝(めいてい)が金人(きんじん)を夢に見て天竺(てんじく)へ使者を遣わしたという仏教伝来の話は、後漢(ごかん)書の西域伝(せいいきでん)が世に伝える話として載せ、袁(えん)宏(こう)の後漢(ごかん)紀(き)は地の文で記す。資治通鑑(しじつがん)は夢に触れず、西域に仏という神がいると聞いて使者を送ったとし、後漢(ごかん)書の明帝(めいてい)紀(き)にはこの話そのものが無い。75年に東宮(とうぐう)前殿で崩じ、遺詔(いしょう)で寝廟(しんびょう)を建てさせず、位牌(いはい)を母の陰皇后(こうごう)の更衣別室に納めさせた。本紀(ほんぎ)は死因を記さないが、明徳馬皇后紀(めいとくばこうごうき)には、皇后の兄の馬防が明帝(めいてい)の医薬に携わったという記事があり、死の前に治療を受けていたことがうかがえる。

在位中の出来事(7件)

被反乱57年10月〜58年8月烧当羌の反乱(滇吾の乱)
改元58年元号を「永平」とする
被反乱58年越巂姑复夷の反乱
大赦59年
立后60年
大赦67年
大赦72年

後漢の歴代皇帝

14名の一覧

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