
前漢第12代統一王朝
成帝劉驁
在位 前33年8月4日〜前7年4月17日(25年262日)
姓劉諱驁字太孫廟号統宗
成帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 漢書・成帝紀
- 即位経路
- 漢書・成帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
前漢の皇帝で、即位の時から外戚の王氏が国政を握り、趙飛燕姉妹を寵愛したが後嗣を得られず、ある朝に急死した。漢書の賛は、酒色に溺れ、趙氏が内を乱し、外家が朝政をほしいままにしたことが、王莽の簒奪につながったと評する。
即位まで
元帝の太子で、母は王政君である。宣帝に愛されて太孫と呼ばれ、常に側に置かれた。太子のころは酒と宴楽を好んで元帝に評価されず、元帝は定陶恭王を後嗣にと考えたが、史丹が太子をかばい、廃されなかった。前33年に即位し、母の兄の王鳳を大司馬大将軍・領尚書事とした。
治世と最期
前27年、母方の叔父五人を同じ日に列侯に封じ、世に五侯と呼ばれた。元后伝によれば、政は王鳳が執り、成帝は劉歆を中常侍にしようとしたときも、王鳳が不可としたので取りやめた。微行で陽阿主の家に立ち寄ったときに歌舞を学んでいた飛燕を見初めて宮中に入れ、のちにその妹も召し入れた。許皇后を廃したのち、前16年に飛燕を皇后に立てたが、寵愛はやがて妹の昭儀に移った。姉妹は十余年にわたって寵を専らにしたが、どちらにも子は無く、本紀は昭儀が後宮の皇子を害したと記す。前8年、後嗣が無いまま、甥の定陶王劉欣を皇太子に立てた。その裏で、定陶王の祖母の傅太后が、外戚伝によれば趙姉妹に、元后伝によれば王根に賄賂を贈っていた。前7年、もともと頑健だった成帝は、明け方に起きようとして衣を取り落とし、口がきけなくなって、その日のうちに未央宮で崩じた。民間は昭儀に罪を帰し、王太后が王莽らに調べさせると、昭儀は自殺した。成帝紀・外戚伝と資治通鑑は病名を書かず、昭儀が手を下したとも断じていない。
在位中の出来事(20件)
大赦前33年8月
改元前32年元号を「建始」とする
大赦前32年
立后前31年
改元前28年元号を「河平」とする
大赦前28年
改元前24年元号を「陽朔」とする
大赦前23年
被反乱前22年潁川鉄官徒申屠聖の乱
改元前20年元号を「鴻嘉」とする
残り10件を表示
被反乱前18年〜前17年広漢の反乱(鄭躬の乱)
改元前16年元号を「永始」とする
大赦前16年
立后前16年
被反乱前14年尉氏の反乱(樊並の乱)
被反乱前14年山陽の反乱(蘇令の乱)
大赦前13年
改元前12年元号を「元延」とする
改元前8年2月元号を「綏和」とする
大赦前8年2月