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王莽の肖像

新(しん)第1代統一王朝

王莽(おうもう)

在位 9年1月10日〜23年10月6日(14年272日)

姓王(おう)諱莽(もう)字巨君(きょくん)

王莽の人物データ

生年
前45年
在位
  • 9年1月10日〜23年10月6日
在位 14年272日53歳で即位(数え年)・長さは365名中89位
没年
23年10月6日68歳(数え年)267名中長寿順19位タイ
死因
戦死非業の死・365名中8名
即位経路
受禅(易姓)帝号を新たに称した
先代
  • 劉嬰王莽は劉嬰の外戚
次代
—
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
漢書 王莽傳下
即位経路
漢書 王莽傳上・王莽傳中

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

外戚(がいせき)として漢の政治を握り、禅譲(ぜんじょう)の形で新を建てたが、改革が行き詰まり、長安(ちょうあん)に攻め込んだ兵に殺された皇帝である。

即位まで

元帝(げんてい)の皇后の甥(おい)で、父の曼(まん)は早くに没して侯に封じられなかった。西暦1年に安漢公(あんかんこう)の号を受けた。平帝(へいてい)が没すると、成長した宣帝(せんてい)の曾孫(そうそん)たちを避けて、玄孫のうち最も幼い2歳の劉嬰(りゅうえい)を選び、自らは周公(しゅうこう)の故事にならって天子の代行となった。平帝(へいてい)の死について、漢書(かんじょ)の王莽(おうもう)伝は地の文で毒殺を書かず、挙兵した翟義(てきぎ)が檄文(げきぶん)で毒殺を訴えたことと、漢兵がそう言っていると聞いた王莽(おうもう)が群臣の前で泣いたことを記すだけである。挙兵した翟義(てきぎ)は檄文(げきぶん)で毒殺を訴え、資治通鑑(しじつがん)は椒酒(しょうしゅ)に毒を入れたと地の文で書く。梓潼(しどう)の哀章(あいしょう)が王莽(おうもう)を天子とせよと記した金匱(きんき)を偽って高廟(こうびょう)に届けると、王莽(おうもう)はこれを受けて西暦9年に天子の位に就き、国号を新とした。劉嬰(りゅうえい)を定安公(ていあんこう)に封じ、その手を取って周公(しゅうこう)のように位を返せないと泣いた。元后伝(げんこうでん)によれば、伝国(でんこく)の璽を求められた太皇太后(たいこうたいごう)は怒って罵り、最後は璽を地に投げつけた。

治世と最期

即位の年に天下の田を王田(おうでん)、奴婢(ぬひ)を私属(しぞく)と改めて売買を禁じたが、民の怨みを知って12年に売買の禁を解いた。10年に造った宝貨(ほうか)五品(ごひん)も民は従わず、通用したのは大小の二品だけで、盗鋳(とうちゅう)は禁じきれず、刑を重くした。23年、王邑(おうゆう)・王尋(おうじん)の大軍は昆陽(こんよう)を囲んだが、救援に来た劉(りゅう)秀(しゅう)の軍に敗れ、大風と豪雨のなかで全軍が崩れた。同じ年に長安(ちょうあん)へ兵が入ると、王莽(おうもう)は符命(ふめい)と威斗(いと)を抱いて漸台(ぜんだい)に逃れ、商人の杜呉(とご)に殺されて首を斬られた。首は更始帝(こうしてい)のもとへ送られて宛の市に懸けられ、民はこれを打った。

在位中の出来事(27件)

大赦9年
被反乱9年〜22年句町・西南夷(益州蛮夷)の反乱
改元9年1月元号を「始建国」とする
大赦9年1月
立后9年1月始建国元年、妻(宜春侯王氏の娘)を皇后に立てる。
被反乱9年4月徐郷侯劉快の乱
大赦10年
大赦12年
改元14年元号を「天鳳」とする
大赦14年
残り17件を表示
大赦14年
大赦15年
大赦16年
被反乱17年〜18年琅邪呂母の乱
被反乱17年〜20年臨淮瓜田儀の乱
被反乱18年〜23年赤眉の乱
改元20年元号を「地皇」とする
大赦20年
大赦20年
皇太子廃立20年
被反乱20年〜23年緑林・新市・平林・下江の反乱および更始政権による長安陥落
被反乱21年南郡秦豊の反乱
被反乱21年平原遅昭平の反乱
被反乱22年無塩索盧恢の反乱
被反乱23年成紀隗崔・隗嚣の反乱
大赦23年3月
立后23年3月

関連動画

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