成家(新〜後漢初)第1代反乱・自称政権
公孫述
在位 25年〜36年12月24日(11年256日)
公孫述の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 25年〜36年12月24日
- 没年
- 36年12月24日
- 死因
- 戦死非業の死・365名中8名
- 即位経路
- 自立帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書 隗囂公孫述列傳
- 即位経路
- 後漢書 隗囂公孫述列傳
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
公孫述は王莽の末から蜀を拠点とし、25年に天子を称して国号を成家とした群雄である。光武帝の降伏の勧めに最後まで応じず、36年に成都を囲まれて自ら出撃し、深手を負ってその夜に死んだ。
即位まで
扶風茂陵の人で、哀帝のときに父の任子で郎となり、王莽の天鳳年間には導江卒正として臨邛にいた。更始帝が立って成都が乱れると、漢の使者を装わせて輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を自らに授け、成都で暴掠していた宗成らを破った。24年には弟の公孫恢に更始帝の軍を綿竹で破らせ、功曹の李熊の勧めで蜀王を称して成都に都した。25年には天子を称して国号を成家とし、龍興と建元して、李熊を大司徒、弟の公孫光を大司馬、公孫恢を大司空とした。華陽国志は国号を大成とし、大司空を任満、公孫恢を太尉としている。後漢書の光武帝紀も、光武帝が即位する前の年の条に、公孫述が天子を自称したことを記している。
治世と最期
公孫述は讖記を引いて符命を説く書をたびたび中原へ送ったが、光武帝は図讖にいう公孫とは宣帝のことだと反駁し、公孫述は答えなかった。35年、岑彭が武陽まで進むと光武帝は降伏を勧めたが、公孫述は降る天子など無いと拒み、部将の環安が刺客に来歙を殺させ、公孫述も刺客に岑彭を殺させた。36年には弟の公孫恢が戦死し、光武帝が再び降伏を促しても応じなかった。呉漢が成都を囲むと、延岑の進言で財を散じて決死の士を募り、市橋で呉漢を破って水に落とした。その後、占書の言葉を呉漢らの死の予言と信じて自ら数万を率いて出撃したが、兵が乱れて胸を刺し貫かれ、城に担ぎ込まれて兵を延岑に託し、その夜に死んだ。後漢書の呉漢伝は護軍の高午が刺し殺したとし、華陽国志は高午が戟で頭を刺して落馬させ、その場で首を取られたとして、城へ運ばれた話を載せない。翌朝延岑が降ると、呉漢は公孫述の妻子と一族を滅ぼして宮室を焼き、光武帝はこれを怒って呉漢を責めた。