
玄漢・更始(新〜後漢初)第1代反乱・自称政権
更始帝劉玄
在位 23年3月11日〜25年(2年189日)
姓劉諱玄字聖公
更始帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 23年3月11日〜25年
- 没年
- 不詳
- 死因
- 処刑非業の死・365名中34名
- 即位経路
- 推戴帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
- 目立つ記録
- 遷都2回(42名中2位タイ)
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書・劉玄劉盆子列傳
- 即位経路
- 後漢書 劉玄劉盆子列傳
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
緑林の諸将に担がれて天子となり、王莽が滅んだのちに長安に入ったが、赤眉に降って殺された皇帝である。
即位まで
光武帝の族兄で、字を聖公という。王莽の末年、緑林から分かれた新市兵に呼応して平林で起こった平林兵に加わり、安集掾となった。23年に諸軍が甄阜らを破ると、劉玄は更始将軍と号され、兵は多いがまとまりが無いため、諸将は彼を天子に立てることにした。同じ年、淯水のほとりの壇で即位したが、もとより気が弱く、恥じて汗を流し、手を挙げたまま言葉が出なかった。
治世と最期
劉縯の名声を忌んで誅殺した。王莽が斬られて首が宛に届くと、喜んで市に懸けた。23年に洛陽に都を移し、24年には長安の長楽宮に入ったが、郎吏が居並ぶと恥じてうつむき、顔を上げられなかった。趙萌の娘を寵愛して政治を趙萌に委ね、昼夜後宮で酒宴を開き、乱発された官爵は長安で歌に嘲られた。諫めた李淑を獄に下してから、関中の人心は離れた。25年の初めに赤眉が関中に入った。同じ年の秋、張卬らが謀って更始帝を襲うと、宮中の戦いに敗れて新豊へ逃れた。同じ年に赤眉が長安に入り、更始帝は肌脱ぎになって璽綬を劉盆子に奉り、長沙王に封じられた。赤眉の暴虐に苦しむ三輔の人々が更始帝を憐れんだため、張卬らに説かれた謝禄が、兵に命じて更始帝を牧馬の場で絞め殺させた。劉玄伝は殺された時を書かず、光武帝紀は建武元年の暮れの記事の後に置く。光武帝はこれを悼み、霸陵に葬らせた。
在位中の出来事(8件)
改元23年3月11日元号を「更始」とする
大赦23年3月11日
被反乱23年8月〜23年10月劉望(鍾武侯)僭号称帝事件
遷都23年10月宛城 → 雒陽(洛陽)
遷都24年雒陽(洛陽) → 長安
被反乱25年〜26年赤眉軍の関中侵攻と長安陥落・更始弑殺
被反乱25年3月方望・弓林、前孺子劉嬰擁立事件
被反乱25年8月〜25年9月張卬ら諸将による宮廷武装政変(立秋貙膢の変)