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高祖の肖像

前漢(ぜんかん)第1代統一王朝

高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)

在位 前202年2月28日〜前195年6月1日(7年95日)

姓劉(りゅう)諱邦(ほう)字季(き)廟号太祖(たいそ)諡号高帝(こうてい)別名漢(かん)高祖(こうそ)

高祖の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前202年2月28日〜前195年6月1日
在位 7年95日長さは365名中155位
没年
前195年6月1日
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 恵帝前漢恵帝は高祖の子
目立つ記録
  • 親征6回(109名中6位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
史記・高祖本紀
即位経路
史記・高祖本紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉邦(りゅうほう)は沛(はい)の豊邑(ほうゆう)の人で、秦末(しんまつ)の乱の中で挙兵し、項羽(こうう)との争いに勝って漢を建てた。即位後は韓信や彭越(ほうえつ)ら功臣の王を次々に除き、黥布(げいふ)を討ったときの矢傷がもとで崩じた。

即位まで

前209年、陳渉が挙兵すると、沛(はい)の父老(ふろう)は沛令(はいれい)を殺して劉邦(りゅうほう)を迎え、劉邦(りゅうほう)は沛公(はいこう)となった。前207年に秦王(しんおう)の子嬰(しえい)を降し、関中(かんちゅう)の父老(ふろう)と法三章(ほうさんしょう)を約した。翌年、項羽(こうう)は約束に背いて劉邦(りゅうほう)を漢王とし、巴(は)・蜀(しょく)・漢中(かんちゅう)を与えた。前202年に項羽(こうう)を垓下(がいか)に囲んで滅ぼし、諸侯王(しょこうおう)らに推されて汜水(しすい)の北岸で皇帝に即位した。劉邦(りゅうほう)は天下を得た理由を、張良・蕭何(しょうか)・韓信の三人を用いることができたからだと語った。

治世と最期

翌年の初め、陳平(ちんぺい)の計で雲夢(うんぼう)に遊ぶと偽って楚王(そおう)の韓信を捕らえ、のちに赦して淮陰侯(わいいんこう)に落とした。前196年、韓信と彭越(ほうえつ)は謀反の罪で三族(さんぞく)を滅ぼされた。漢書(かんじょ)の高帝(こうてい)紀(き)は謀反として三族(さんぞく)を滅ぼしたとだけ書くが、史記(しき)の列伝(れつでん)によれば、韓信は呂后(りょこう)が蕭何(しょうか)と謀って長楽宮(ちょうらくきゅう)で斬らせ、彭越(ほうえつ)は蜀(しょく)へ移されるところを呂后(りょこう)の勧めで誅(ちゅう)された。史記(しき)の黥布(げいふ)列伝(れつでん)によれば、これを見て恐れた淮南王(わいなんおう)の黥布(げいふ)が兵を挙げ、、劉邦(りゅうほう)は自ら討ってその軍を破った。帰途に故郷の沛(はい)へ寄り、父老(ふろう)を集めて酒宴を開き、筑(ちく)を撃って大風の歌を歌った。黥布(げいふ)との戦いで流れ矢に当たった劉邦(りゅうほう)は道中で病み、呂后(りょこう)が招いた良医を、命は天にあると罵って治療させなかった。前195年に長楽宮(ちょうらくきゅう)で崩じ、呂后(りょこう)は審食其(いき)と謀ってしばらく喪を発しなかった。漢書(かんじょ)の本紀(ほんぎ)は年齢を記さず、没年齢を史記(しき)の注は六十二とし、漢書(かんじょ)の注は五十三とする。

在位中の出来事(17件)

親征前202年利幾
被反乱前202年利幾の反乱
大赦前202年2月
立后前202年2月28日高帝五年(前202年)二月甲午、氾水の陽にて皇帝に即位すると同時に、王后(呂雉)を皇后に、太子(劉盈)を皇太子に冊立。
大赦前202年6月26日
親征前202年8月〜前202年10月燕王臧荼
被反乱前202年8月〜前202年10月燕王臧荼の反乱
親征前201年韓王信(劉邦配下の異姓諸侯王・韓王信)とその残党、および匈奴(白登山の包囲を含む)
被反乱前201年10月〜前196年3月韓王信の離反・匈奴との共同抗漢
親征前200年韓王信の残党(王黄ら)
残り7件を表示
大赦前198年
被反乱前197年〜前196年陳豨の反乱
親征前197年10月〜前196年3月陳豨とその与党(王黄・曼丘臣・趙利ら)
大赦前196年
被反乱前196年淮南王英布(黥布)の反乱
親征前196年8月〜前196年12月淮南王英布(黥布)
被反乱前195年3月〜前195年5月燕王盧綰の離反

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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