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宣帝の肖像

前漢(ぜんかん)第10代統一王朝

宣帝(せんてい)劉詢(りゅうじゅん)

在位 前74年9月10日〜前48年1月10日(25年129日)

姓劉(りゅう)諱詢(じゅん)字次卿(じけい)廟号中宗(ちゅうそう)別名劉病已(りゅうへいい)

宣帝の人物データ

生年
前91年
在位
  • 前74年9月10日〜前48年1月10日
在位 25年129日18歳で即位(数え年)・長さは365名中36位
没年
前48年1月10日43歳(数え年)267名中長寿順115位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代
  • 元帝前漢元帝は宣帝の子
目立つ記録
  • 改元7回(327名中10位タイ)
  • 立后3回(202名中5位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
漢書 巻七十八 蕭望之傳/漢書 巻八 宣帝紀
即位経路
漢書・宣帝紀/霍光金日磾傳

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

巫蠱(ふこ)の事件で獄中に育った武帝(ぶてい)の曾孫(そうそん)で、霍光(かくこう)に擁立され、霍光(かくこう)の死後に親政を始めて霍氏(かくし)を滅ぼした前漢(ぜんかん)の皇帝である。班固の賛(さん)は、信賞(しんしょう)必罰と名実の吟味を挙げ、匈奴(きょうど)を服属させた功とあわせて中興と称える。

即位まで

戻太子(れいたいし)の孫で、父は史皇孫(しこうそん)、母は王夫人(おうふじん)である。前91年、生後数か月で巫蠱(ふこ)の事件に遭い、祖父の戻太子(れいたいし)と祖母、父母がみな命を落とし、乳児のまま郡邸(ぐんてい)の獄につながれた。廷尉(ていい)監(かん)の邴(へい)吉が女囚に乳を与えさせて守り、前87年に武帝(ぶてい)が獄囚をみな殺させようとしたときも、門を閉ざして使者を入れなかった。のちに掖庭(えきてい)で育ち、掖庭令(えきていれい)の張賀が学問をさせ、許広漢(こうかん)の娘を娶(めと)った。闘鶏や競馬を好み、民間の悪事や役人の良し悪しをよく知っていた。前74年に昭帝(しょうてい)が子の無いまま没し、迎えられた昌邑王(しょうゆうおう)劉賀(りゅうが)も霍光(かくこう)に廃されると、霍光(かくこう)は民間にいた曾孫(そうそん)を昭帝(しょうてい)の跡継ぎに立てるよう奏した。宗正(そうせい)が尚冠里(しょうかんり)の家まで迎えに行き、陽武侯(ようぶこう)に封じられたのち即位した。

治世と最期

霍光(かくこう)伝によれば、高廟(こうびょう)に参ったとき霍光(かくこう)が同じ車に乗り、宣帝(せんてい)は背に芒刺(ぼうし)があるかのように恐れ憚(はばか)った。公卿(こうけい)が霍光(かくこう)の娘を皇后にと望むなか、宣帝(せんてい)は貧しかったころの剣を求める詔を出し、許婕妤(しょうよ)が皇后に立てられた。霍光(かくこう)の妻の顕は娘を皇后にするため、女医の淳于(じゅんう)衍(えん)に許皇后(こうごう)を毒殺させ、許皇后(こうごう)は前71年に没した。霍光(かくこう)はのちにこれを知ったが告発できず、淳于(じゅんう)衍(えん)を不問にした。前68年に霍光(かくこう)が没すると、宣帝(せんてい)は初めて自ら政事を執った。前66年、霍(かく)禹(う)らが大逆を謀ったとして誅(ちゅう)され、詔は顕が許皇后(こうごう)を殺したことを明らかにし、霍(かく)皇后(こうごう)も廃された。連座(れんざ)して滅ぼされた者は数千家に及んだ。前51年には匈奴(きょうど)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が来朝して藩臣(はんしん)を称した。前48年に未央宮(びおうきゅう)で没した。

在位中の出来事(21件)

大赦前74年10月
立后前74年12月31日
改元前73年元号を「本始」とする
大赦前73年
大赦前70年
大赦前70年
立后前70年
改元前69年元号を「地節」とする
大赦前68年
大赦前67年
残り11件を表示
改元前65年元号を「元康」とする
大赦前64年
立后前64年
改元前61年元号を「神爵」とする
被反乱前61年〜前60年神爵年間の西羌(先零羌)の反乱
大赦前60年
大赦前58年
改元前57年元号を「五鳳」とする
改元前53年元号を「甘露」とする
大赦前52年
改元前49年元号を「黄龍」とする

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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