
前漢第11代統一王朝
元帝劉奭
在位 前48年1月29日〜前33年7月8日(15年164日)
姓劉諱奭廟号高宗
元帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 漢書・元帝紀
- 即位経路
- 漢書・元帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
元帝(劉奭)は前漢の宣帝の太子で、即位すると儒者を重く用いたが、病がちで宦官の石顕に政を委ねた。漢書の賛は、優柔不断で宣帝の業はこの代に衰えたと評している。
即位まで
母は宣帝の許皇后で、八歳で太子に立てられた。柔和で儒を好んだ劉奭が、刑が厳しすぎるので儒生を用いるべきだと進言すると、宣帝は顔色を変え、漢家には漢家の制度があると退けて、わが家を乱すのは太子だと嘆いた。宣帝は淮陽王を愛して太子と替える意もあったが、若いころ許氏に頼った恩から廃さなかった。宣帝が崩じると、劉奭が位に即いた。
治世と最期
中書令の弘恭・石顕らが師の蕭望之を讒言し、蕭望之は鴆を飲んで自殺した。蕭望之伝によれば、元帝は賢い師を殺したと嘆いて食を退け涙を流した。佞幸伝によれば、元帝は病のため政事を自ら執らず、事の大小を問わず石顕を通して決まり、石顕の非を奏した京房・賈捐之らは処刑された。外では、珠厓郡が叛くと賈捐之の献策で郡そのものを廃し、西羌の反乱は馮奉世らに討たせて平定した。西域都護の甘延寿と副校尉の陳湯は兵を発して郅支単于の首を斬った。前33年には匈奴の呼韓邪単于が来朝し、竟寧と改元して、後宮の王檣を単于の閼氏として賜った。同じ年、病に臥した元帝の側には傅昭儀と定陶王が常にいて、元帝は景帝が膠東王を立てた故事を尚書に何度も尋ねたが、史丹が寝所で涙ながらに諫め、太子の地位は保たれた。佞幸伝と資治通鑑は、石顕らも太子を擁護したと記す。まもなく未央宮で崩じた。元帝紀は病名も崩御時の年齢も記さない。同じ賛は、元帝が多才で書に長じ、琴瑟や洞簫を奏して自ら曲を作ったとも伝える。
在位中の出来事(17件)
改元前48年2月元号を「初元」とする
大赦前48年2月
立后前48年4月12日
大赦前47年
大赦前46年
被反乱前46年珠厓郡山南県の反乱(海南島)
改元前43年元号を「永光」とする
大赦前43年
大赦前42年
大赦前42年
残り7件を表示
被反乱前42年〜前41年西羌の反乱
大赦前40年
改元前38年元号を「建昭」とする
大赦前37年
大赦前35年
大赦前34年4月
改元前33年3月元号を「竟寧」とする