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元帝の肖像

前漢(ぜんかん)第11代統一王朝

元帝(げんてい)劉(りゅう)奭(せき)

在位 前48年1月29日〜前33年7月8日(15年164日)

姓劉(りゅう)諱奭(せき)廟号高(こう)宗(そう)

元帝の人物データ

生年
前75年
在位
  • 前48年1月29日〜前33年7月8日
在位 15年164日27歳で即位(数え年)・長さは365名中83位
没年
前33年7月8日43歳(数え年)267名中長寿順115位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 宣帝前漢元帝は宣帝の子
次代
  • 成帝前漢成帝は元帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
漢書・元帝紀
即位経路
漢書・元帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

元帝(げんてい)(劉(りゅう)奭(せき))は前漢(ぜんかん)の宣帝(せんてい)の太子で、即位すると儒者を重く用いたが、病がちで宦官(かんがん)の石顕(せきけん)に政を委ねた。漢書(かんじょ)の賛(さん)は、優柔不断で宣帝(せんてい)の業はこの代に衰えたと評している。

即位まで

母は宣帝(せんてい)の許皇后(こうごう)で、八歳で太子に立てられた。柔和で儒を好んだ劉(りゅう)奭(せき)が、刑が厳しすぎるので儒生を用いるべきだと進言すると、宣帝(せんてい)は顔色を変え、漢家(かんか)には漢家(かんか)の制度があると退けて、わが家を乱すのは太子だと嘆いた。宣帝(せんてい)は淮陽王(わいようおう)を愛して太子と替える意もあったが、若いころ許氏(きょし)に頼った恩から廃さなかった。宣帝(せんてい)が崩じると、劉(りゅう)奭(せき)が位に即いた。

治世と最期

中書令(ちゅうしょれい)の弘恭(こうきょう)・石顕(せきけん)らが師の蕭望之(しょうぼうし)を讒言(ざんげん)し、蕭望之(しょうぼうし)は鴆(ちん)を飲んで自殺した。蕭望之(しょうぼうし)伝によれば、元帝(げんてい)は賢い師を殺したと嘆いて食を退け涙を流した。佞幸伝(ねいこうでん)によれば、元帝(げんてい)は病のため政事を自ら執らず、事の大小を問わず石顕(せきけん)を通して決まり、石顕(せきけん)の非を奏した京房・賈(か)捐之(えんし)らは処刑された。外では、珠厓郡(しゅがいぐん)が叛(そむ)くと賈(か)捐之(えんし)の献策で郡そのものを廃し、西羌(せいきょう)の反乱は馮(ふう)奉世(ほうせい)らに討たせて平定した。西域都護の甘延寿(かんえんじゅ)と副校尉(ふくこうい)の陳湯(ちんとう)は兵を発して郅支単于(しつしぜんう)の首を斬った。前33年には匈奴(きょうど)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が来朝し、竟寧(きょうねい)と改元(かいげん)して、後宮の王檣(しょう)を単于(ぜんう)の閼氏(えんし)として賜った。同じ年、病に臥(ふ)した元帝(げんてい)の側には傅(ふ)昭儀(しょうぎ)と定陶王(ていとうおう)が常にいて、元帝(げんてい)は景帝(けいてい)が膠東王(こうとうおう)を立てた故事を尚書に何度も尋ねたが、史丹が寝所で涙ながらに諫(いさ)め、太子の地位は保たれた。佞幸伝(ねいこうでん)と資治通鑑(しじつがん)は、石顕(せきけん)らも太子を擁護したと記す。まもなく未央宮(びおうきゅう)で崩じた。元帝(げんてい)紀(き)は病名も崩御(ほうぎょ)時の年齢も記さない。同じ賛(さん)は、元帝(げんてい)が多才で書に長じ、琴瑟(きんしつ)や洞簫(どうしょう)を奏して自ら曲を作ったとも伝える。

在位中の出来事(17件)

改元前48年2月元号を「初元」とする
大赦前48年2月
立后前48年4月12日
大赦前47年
大赦前46年
被反乱前46年珠厓郡山南県の反乱(海南島)
改元前43年元号を「永光」とする
大赦前43年
大赦前42年
大赦前42年
残り7件を表示
被反乱前42年〜前41年西羌の反乱
大赦前40年
改元前38年元号を「建昭」とする
大赦前37年
大赦前35年
大赦前34年4月
改元前33年3月元号を「竟寧」とする

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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