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秦(しん)第2代統一王朝

二世皇帝(にせいこうてい)胡亥(こがい)

在位 前210年〜前207年9月(2年360日)

姓嬴(えい)諱胡亥(こがい)別名秦二世(しんにせい)

二世皇帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前210年〜前207年9月
在位 2年360日21歳で即位(数え年)・長さは365名中225位
没年
前207年9月23歳(数え年)267名中長寿順217位タイ
死因
自尽非業の死・365名中14名
即位経路
擁立
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
史記・秦始皇本紀/史記・李斯列傳
即位経路
史記・秦始皇本紀/史記・李斯列傳

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

父の始皇帝(しこうてい)の死を伏せた偽の遺詔(いしょう)によって位に就き、陳勝(ちんしょう)らの反乱で秦(しん)の支配が崩れていくなかで趙高(ちょうこう)に追い詰められた皇帝である。

即位まで

始皇帝(しこうてい)の末子で、最後の巡遊に願い出て随行した。かつて趙高(ちょうこう)に書と法律を教わり、趙高(ちょうこう)を寵愛(ちょうあい)していた。始皇帝(しこうてい)が沙丘(さきゅう)で没すると、趙高(ちょうこう)・李斯と謀って扶蘇(ふそ)あての書を破り、遺詔(いしょう)を偽って太子となった。李斯列伝(りしれつでん)によれば、二世皇帝(にせいこうてい)ははじめ、兄を廃して弟が立つのは不義だと拒んでいた。偽の書を受けた扶蘇(ふそ)は、蒙恬(もうてん)が止めるのも聞かずに自殺した。即位した年齢は、本紀(ほんぎ)が21歳とする一方で、同じ巻末の秦記(しんき)は12歳とする。

治世と最期

前209年に陳勝(ちんしょう)らが旧楚(きゅうそ)の地で張楚(ちょうそ)を立てると、山東(さんとう)の郡県(ぐんけん)では秦(しん)の役人に苦しんだ若者たちが守尉(しゅい)や令丞(れいじょう)を殺して呼応した。二世皇帝(にせいこうてい)は趙高(ちょうこう)の勧めで宮中にこもり、諫(いさ)めた丞相(じょうしょう)の李斯らを獄に下し、李斯は処刑された。趙高(ちょうこう)は鹿を献じて馬と言い、鹿と言った者を罪に陥れた。劉邦(りゅうほう)が武関(ぶかん)を破ると、趙高(ちょうこう)は罪が自分に及ぶのを恐れ、婿の閻楽(えんらく)に兵を率いさせて望夷宮(ぼういきゅう)を襲わせた。本紀(ほんぎ)によれば、二世皇帝(にせいこうてい)は郡の王として、次に万戸侯(ばんここう)として、最後に庶民として生かしてほしいと願ったがすべて退けられ、自殺した。李斯列伝(りしれつでん)は、望夷宮(ぼういきゅう)の場面では閻楽(えんらく)の兵ではなく趙高(ちょうこう)自身が脅して自殺させたと書き、本紀(ほんぎ)にも趙高(ちょうこう)が二世皇帝(にせいこうてい)を殺したという言い方が並んでいる。史記(しき)の本紀(ほんぎ)と李斯列伝(りしれつでん)、資治通鑑(しじつがん)のどれにも死の日付は記されていない。遺体は庶民の礼で宜春苑(ぎしゅんえん)に葬られた。

在位中の出来事(9件)

大赦前209年二世二年冬、周章の軍が戯まで迫ったとき、少府章邯の献策で驪山の刑徒を赦して兵とした。
被反乱前209年〜前208年陳勝・呉広の乱(張楚)
被反乱前209年〜前207年武臣の趙地自立(のち趙王歇に交代)
被反乱前209年〜前208年魏咎の魏地自立
被反乱前209年田儋の斉地自立
被反乱前209年〜前208年項梁の会稽挙兵(楚)
被反乱前209年〜前207年劉邦の沛での挙兵、武関突破
被反乱前208年〜前207年項羽による楚軍指揮・鉅鹿救援
被反乱前207年9月望夷宮の変

秦の歴代皇帝

2名の一覧

関連動画

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