北魏(南北朝)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝
東海王元曄
在位 530年12月5日〜531年4月1日(117日)
姓元諱曄字華興幼名盆子
東海王元曄の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻十一 出帝紀/北史 巻五/資治通鑑 巻155
- 即位経路
- 魏書 巻十一 前廢帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
元曄は北魏の宗室の長広王で、530年、孝荘帝が爾朱栄を殺したのち、爾朱世隆と爾朱兆に主に推されて建明と改元した。翌年には疏遠な傍系として廃されて東海王となり、532年に罪に問われて死んだ。
即位まで
元曄の父の元怡は南安王元楨の子で、爾朱栄の妻の兄にあたる。魏書の列伝は元曄を、軽躁で膂力があったと記す。孝荘帝の初めに長広王に封ぜられ、太原太守として地方に出ていた。530年、爾朱栄が孝荘帝に殺されると、爾朱世隆と晋陽から来た爾朱兆が元曄を主に推し、元曄は所部に大赦して建明と年号を立てた。推戴の場所を魏書の孝荘紀は建興の高都とし、爾朱世隆伝は長子として、資治通鑑考異は世隆伝に従う。
治世と最期
元曄は爾朱世隆を尚書令・楽平郡王とした。爾朱兆らが洛陽を襲って孝荘帝を捕らえたのち、元曄は天下に大赦した。やがて爾朱世隆らは、元曄が皇室の疏遠な傍系で人望もないとして、広陵王の元恭を立てようと謀った。資治通鑑によれば、世隆兄弟は元曄の母の衛氏が政に口を出すのを恐れ、盗賊を装った騎兵に洛陽の街で殺させた。531年、竇瑗が天人の望みは広陵王にあると奏すると、元曄は位を譲って東海王とされた。532年、元曄は後廃帝の元朗とともに事に坐して死んだ。魏書の列伝は私邸で死を賜ったとし、北史と資治通鑑は殺されたと書き、罪の内容は魏書・北史・資治通鑑のいずれも書かない。
在位中の出来事(2件)
改元530年12月5日元号を「建明」とする
大赦531年1月10日