北魏(南北朝)第12代分裂期の王朝
孝武帝元脩
在位 532年6月13日〜535年2月3日(2年235日)
姓元諱脩字孝則別称出帝
孝武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻十一 出帝紀
- 即位経路
- 魏書 巻十一 出帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
高歓に擁立されながら高歓と対立して関中の宇文泰のもとへ逃れ、魏が東西に分かれるきっかけとなった北魏の皇帝である。
即位まで
広平王元懐の第三子で、530年に平陽王に封じられた。北史によれば、諸王が逃げ隠れるなかで田舎に潜んでいたところを、高歓が斛斯椿を遣わして探し出させた。532年、安定王が位を譲ると申し出、高歓が百官と議して彼を奉じ、洛陽の東郭の外で即位した。北史は、即位が代都の旧制に従い、黒い氈を七人でかぶる儀式で行われ、高歓もその一人だったと記す。
治世と最期
即位するとすぐに高歓を大丞相・太師とした。533年には汝南王元悦を殺した。やがて斛斯椿・王思政らに取り入られて高歓に二心を抱き、534年に梁を討つと称して河南の兵を集めた。同じ年、十余万の軍で河橋に陣を構えたのち、長安へ逃れ、宇文泰に迎えられた。魏書は斛斯椿らに迫られて逃れたと書くが、資治通鑑の考異は、魏書の斛斯椿伝の書き方を、魏収が北斉におもねって斛斯椿の罪を重くしたものとして退けている。高歓は元善見を立てて鄴へ都を移し、魏は二つに分かれた。長安では、連れてきた従妹の平原公主明月を宇文泰に殺されて不和となった。535年の初めに没し、北史と資治通鑑は酒を飲んで毒に当たったと書くが、毒を盛った者の名は出さない。東魏の側に立つ魏書は、宇文泰に殺されたとはっきり書く。
在位中の出来事(13件)
改元532年6月13日元号を「太昌」とする
大赦532年6月13日
被反乱532年8月郭迁の反乱(夏州徙民、宥州)
被反乱533年耿翔の反乱(青州人、胶州占拠)
被反乱533年王早・簡実らの反乱(東徐州城民)
親征534年表向きは南朝梁(萧衍)討伐だが、実際の意図は大丞相・斉献武王(高歓)への先制軍事行動
被反乱534年傅晶の反乱(東清河郡)
被反乱535年2月3日宇文泰による出帝弑殺
改元日付不詳元号を「永興」とする
改元日付不詳元号を「永熙」とする
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大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳