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東魏(とうぎ)(南北朝(なんほくちょう))第1代分裂期の王朝

孝静帝(こうせいてい)元(げん)善見(ぜんけん)

在位 534年11月8日〜550年6月7日(15年215日)

姓元(げん)諱善見(ぜんけん)

孝静帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 534年11月8日〜550年6月7日
在位 15年215日11歳で即位(数え年)・長さは365名中82位
没年
552年1月21日28歳(数え年)267名中長寿順198位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
次代
  • 文宣帝北斉文宣帝は孝静帝の外戚
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 巻十二 孝靜紀
即位経路
魏書 巻十二 孝靜紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

孝武帝が関中へ去ったあと高歓に立てられて鄴へ都を移し、高澄に侮られながら北斉に位を譲って殺された東魏の皇帝である。

即位まで

清河文宣王元亶の世子で、母は胡妃である。534年、孝武帝が関中に入って戻らなかったため、高歓が百官と議して幼い善見を後継に推した。同じ年に即位して天平と改元し、数日後に遷都の詔を出して洛陽から鄴へ移った。北史の孝武紀は、魏はここで二つに分かれたと記す。

治世と最期

文学を好んで姿が美しく、石の獅子を抱えて垣を越えるほどの力があり、射れば必ず当てた。544年からは高歓の子の高澄が大将軍として政務と賞罰を握った。高澄は帝を忌んで崔季舒に動静を見張らせ、手紙では帝を愚か者と呼んだ。宴席で帝が昔から亡びない国は無いと嘆くと、高澄は怒って崔季舒に帝を三度殴らせた。帝はこれに耐えられず、荀済らが宮中から地下道を掘る謀を立てたが発覚し、帝は含章堂に閉じ込められ、加わった者は市で煮殺された。549年に高澄が死ぬと、550年には弟の高洋に九錫を与えたうえで帝位を斉に譲り、その日のうちに別宮へ退いた。宮門を出るとき、今日は常道郷公や漢の献帝に劣らないと言ったという。552年、中山王とされていた元善見は没した。本紀のこの条は死因を書かず、本紀の末尾は、皇后の太原公主が毒見をして守ったが結局毒で没したと記し、資治通鑑は文宣帝が人をやって毒殺させ、3人の子も殺したと書く。のちに陵を掘ったことを本紀と資治通鑑はともに記すが、本紀は陵が崩れて60人が死んだとし、資治通鑑は棺を漳水に投げ込んだとする。

在位中の出来事(28件)

遷都534年11月洛陽 → 鄴
改元534年11月8日元号を「天平」とする
大赦534年11月8日
被反乱534年12月〜535年3月兖州刺史樊子鹄・南青州刺史大野抜の瑕丘拠反
被反乱535年前青州刺史侯渊の反乱
大赦536年天平三年秋七月庚子、大赦天下。
被反乱536年陽夏太守盧公纂の南叛
被反乱536年陽平人路季礼の反乱
大赦537年天平四年夏四月辛未、七帝神主を新廟に遷すのに伴い大赦天下、内外百官普進一階。
被反乱537年荥陽人張倹らの反乱(西魏に内通)
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被反乱537年〜538年河間人邢摩納・范陽人盧仲礼らの反乱
改元538年元号を「元象」とする
大赦538年元象元年春正月丁卯、大赦、改元(天平から元象へ)。
改元539年元号を「興和」とする
大赦539年興和元年夏五月乙亥、皇后高氏冊立(甲戌)の翌日に大赦天下。
大赦539年興和元年冬十有一月癸亥、新宮完成に伴い大赦天下、改元(元象から興和へ)。
立后539年興和元年夏五月甲戌、高氏を皇后に立てる。
大赦540年興和二年春正月丁丑、新宮に遷るのに伴い大赦、内外百官普進一階。
被反乱541年梁州人公孫貴賓の反乱(自称大王)
改元543年元号を「武定」とする
大赦543年武定元年春正月壬戌朔、大赦天下、改元(興和から武定へ)。
被反乱543年北豫州刺史高仲密の虎牢拠西叛
被反乱544年徐州人劉烏黒の反乱
大赦545年武定三年夏五月甲辰、大赦天下。
大赦547年武定五年五月丁酉朔、大赦天下。
被反乱547年〜548年侯景の乱
被反乱547年荀済・元瑾・華山王元大器らの高澄打倒計画と高澄による孝静帝幽閉
大赦549年武定七年八月癸巳、大赦天下、内外百官並加二級(高澄急死後の混乱収拾のための大赦)。

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