北魏(南北朝)第8代分裂期の王朝
孝明帝元詡
在位 515年2月12日〜528年3月31日(13年51日)
姓元諱詡廟号粛宗
孝明帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻9 肅宗紀/魏書 皇后傳/魏書 爾朱榮傳/北史 巻13 后妃傳
- 即位経路
- 魏書 巻9 肅宗紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
幼くして即位し、母の胡太后が幽閉されていたあいだに北の鎮で反乱が起こり、母の側近との対立のさなかに急死した北魏の皇帝である。
即位まで
宣武帝の第二子で、母は胡充華であり、510年に宣光殿で生まれた。512年に皇太子に立てられ、515年に父の死を受けて夜のうちに即位した。同じ年、群臣の請いで母の胡太后が朝政に臨んだ。
治世と最期
520年、元叉と劉騰が太后の詔を偽って胡太后を北宮に幽閉し、清河王元懌を殺した。魏書の本紀は、524年に沃野鎮の破落汗抜陵が鎮将を殺して反したと書き、資治通鑑の考異は周書の記事からこれを前年のことと見る。高平や秦州でも反乱が続き、525年には胡太后が再び朝政に臨んだ。528年、皇后伝によれば、胡太后は鄭儼と計って生まれた皇女を皇子と偽り、大赦と改元を行った。同じ年、顕陽殿で没した。魏書の本紀は崩御の原因を地の文では記さず、載せる胡太后の詔は病が重くなって没したとし、皇后伝は鄭儼・徐紇の計だと当時言われたと伝え、爾朱栄の上表は、天下の人がみな毒で死んだと言っていると述べる。北史の后妃伝と資治通鑑は、鄭儼らが太后と謀って毒を盛ったと書き、資治通鑑は、帝が爾朱栄に密詔を送って兵を向けさせたことを動機に挙げる。胡太后は幼い元釗を立てたが、同じ年に河を渡った爾朱栄は、太后と幼主を河に沈めた。
在位中の出来事(52件)
大赦515年2月13日
被反乱515年4月〜515年5月氐反(梁州・南秦州、沮水・武興)
被反乱515年6月〜517年1月法慶(大乗教)の乱
大赦515年9月11日
改元516年元号を「熙平」とする
大赦516年
大赦517年
改元518年元号を「神亀」とする
大赦518年
被反乱518年神亀元年の氐・羌反乱(秦州羌・東益州氐・南秦州氐)
残り42件を表示
被反乱518年河州却鉄匆の乱(水池王)
大赦519年
改元520年元号を「正光」とする
大赦520年
大赦520年
被反乱520年元叉・劉騰のクーデター(幽太后・清河王懌殺害)
被反乱521年南荊州桓叔興の南朝離反
大赦522年
被反乱523年東益・南秦氐反(二回目)
大赦524年
被反乱524年〜525年破六韓抜陵の乱(沃野鎮、六鎮の乱発端)
被反乱524年胡琛の乱(高平)
被反乱524年〜527年莫折氏の乱(秦州)
被反乱524年〜525年南秦孫掩・張長命・韓祖香の乱
被反乱524年〜525年涼州反乱(于菩提・趙天安)
被反乱524年南秀容于乞真の乱
被反乱524年営州劉安定・就徳興の乱
被反乱524年汾州正平・平陽山胡叛逆
改元525年元号を「孝昌」とする
大赦525年
大赦525年
被反乱525年徐州元法僧の乱
被反乱525年齊州魏郡房伯和の乱
被反乱525年齊州清河崔畜・広川傅堆の乱
被反乱525年柔玄鎮杜洛周の乱
大赦526年
被反乱526年山胡劉蠡升の乱
被反乱526年定州鮮于脩礼〜葛栄の乱
被反乱526年西部敕勒斛律洛陽の乱
被反乱526年朔州鮮于阿胡・庫狄豊楽の乱
被反乱526年絳蜀陳雙熾の乱
被反乱526年齊州平原劉樹・劉蒼生の乱
大赦527年
被反乱527年徐州任道棱の乱
被反乱527年東郡趙顕徳の乱
被反乱527年齊州劉鈞・房須の乱
被反乱527年相州安楽王鑒の乱
被反乱527年陳郡劉獲・鄭辯の乱
被反乱527年東豫州元慶和の南朝離反
被反乱527年10月〜528年1月雍州蕭寶夤の乱
改元528年2月13日元号を「武泰」とする
大赦528年2月13日