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北魏(ほくぎ)(南北朝(なんほくちょう))分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

元愉(げんゆ)

在位 508年9月22日〜508年11月1日(40日)

姓元(げん)諱愉(ゆ)字宣徳(せんとく)別称京兆王(けいちょうおう)

元愉の人物データ

生年
不詳
在位
  • 508年9月22日〜508年11月1日
在位 40日長さは365名中351位タイ
没年
508年21歳(数え年)267名中長寿順228位タイ
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
自立対立・僭称の皇帝帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 列傳第十 孝文五王(京兆王愉)/北史/資治通鑑 巻一百四十七
即位経路
魏書 列傳第十 孝文五王(京兆王愉)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

元愉(げんゆ)は北魏(ほくぎ)の孝文帝(こうぶんてい)の子で、京兆王(けいちょうおう)として冀州(きしゅう)刺史(しし)にあったとき、508年に信都(しんと)で皇帝を称し、建平(けんぺい)と号した。まもなく宣武帝(せんぶてい)の遣わした李(り)平に敗れて捕らえられ、都へ送られる途中の野王(やおう)で死んだ。

即位まで

元愉(げんゆ)は袁貴人(えんきじん)の子で、文昭皇后(ぶんしょうこうごう)の子である宣武帝(せんぶてい)とは母の異なる兄弟にあたる。宣武帝(せんぶてい)は于(う)皇后(こうごう)の妹を元愉(げんゆ)の妃としたが、元愉(げんゆ)は妃を礼遇せず、徐州(じょしゅう)で娶(めと)った李氏(りし)を寵愛(ちょうあい)した。文人を招いて詩賦を好む一方で、弟の広平王(こうへいおう)元懐(げんかい)と奢侈(しゃし)を競って法を守らなかったため、宣武帝(せんぶてい)は禁中(きんちゅう)で杖を加え、冀州(きしゅう)刺史(しし)に出した。二人の弟より勢位が劣ることを恨み、寵愛(ちょうあい)する李氏(りし)がたびたび辱められたことも含んでいたという。元愉(げんゆ)は冀州(きしゅう)で長史の羊霊引(れいいん)と司馬(しば)の李(り)遵を殺し、高肇(ちょう)が主上を殺そうとしていると称して、信都(しんと)の南に壇を築いて皇帝の位に即いた。天下に大赦して建平(けんぺい)と号し、李氏(りし)を皇后に立てた。清河王(せいがおう)元懌(げんえき)の密書を得たという元愉(げんゆ)の言い分を、資治通鑑(しじつがん)は偽りとする。

治世と最期

魏書(ぎしょ)の世宗(せいそう)紀(き)は、元愉(げんゆ)が州に拠って反したとだけ記し、称帝(しょうてい)と建平(けんぺい)の年号には触れない。宣武帝(せんぶてい)は尚書の李(り)平に討たせ、元愉(げんゆ)は出撃して拒んだがたびたび敗れ、城に籠もった。李(り)平が信都(しんと)を陥とすと元愉(げんゆ)は北へ逃れ、統軍(とうぐん)の叔孫(しゅくそん)頭に捕らえられた。群臣は誅殺(ちゅうさつ)を請うたが宣武帝(せんぶてい)は許さず、洛陽(らくよう)へ送らせた。魏書(ぎしょ)と北史(ほくし)の列伝(れつでん)は、元愉(げんゆ)が野王(やおう)で至尊にまみえる面目が無いと語ってすすり泣き、息絶えたと記し、高肇(ちょう)が人に殺させたという話を或(あ)る説として添える。資治通鑑(しじつがん)は高肇(ちょう)がひそかに人を遣って殺したと断定し、考異(こうい)は、捕らえられても恥じなかった者が急に息絶えるはずがないとしてこの説を採った理由を述べる。

在位中の出来事(5件)

親征508年9月〜508年10月冀州刺史として信都(冀州治所)で挙兵し、長史羊霊引・司馬李遵を殺害。清河王怿の密書(高肇が世宗暗殺を謀っているとの偽情報)を得たと称して信都南に壇を築き、天に柴燎して即皇帝位(建元「建平」・立后・大赦)。世宗(宣武帝)が派遣した尚書李平の討伐軍に対し、自ら出撃して抗戦した(「愉出拒王師」)。
被反乱508年9月〜508年10月宣武帝側による元愉討伐(元愉自身の視点では正統政権からの鎮圧を受けた事象)
改元日付不詳元号を「建平」とする
大赦日付不詳
立后日付不詳

北魏の歴代皇帝

18名の一覧

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