北魏(南北朝)第7代分裂期の王朝
宣武帝元恪
在位 499年5月7日〜515年2月12日(15年285日)
宣武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻8 世宗紀
- 即位経路
- 魏書 巻8 世宗紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
孝文帝の跡を継いだ北魏の皇帝で、外戚の高肇を重んじて叔父の諸王を次々に死なせ、仏教を篤く崇めた。魏書の史臣は、下に寛大で決断に欠け、孝文帝の気風は衰えたと評する。
即位まで
孝文帝の第二子で、母は高夫人である。孝文帝が宝物を並べて子らに取らせたとき、ほかの皇子が珍しい品を争うなかで骨の如意だけを取ったという。兄の太子元恂が徳を失って廃されたのち、497年に皇太子に立てられた。生母の高氏は洛陽へ向かう途中で急死し、馮昭儀が人をやって殺させたとも言われたが、魏書と北史の伝は、子を立てるときに母を殺す旧制による死とは書かない。499年に魯陽で即位し、喪に服して政務を宰輔に任せた。
治世と最期
501年に初めて自ら政を執ると、叔父の咸陽王元禧が謀反を図って死を賜った。宣武帝はこれを機に生母の兄の高肇を信任し、高肇は北海王元詳を陥れて殺させ、諸王を囚人同然に見張らせた。507年には梁を攻めていた中山王元英が、大水に遭って鍾離で敗れた。508年に弟の京兆王元愉が冀州で反して捕らえられ、群臣が誅殺を請うても宣武帝は許さず、都へ送らせた。同じ年に叔父の彭城王元勰が殺され、高肇伝は高肇がその殺害を勧めたと記す。仏理を好んで毎年禁中で自ら経論を講じ、延昌年間には天下の寺が13727に達した。後宮では旧制を恐れて皆が太子を生まないよう祈ったが、胡氏は死を辞さないと誓って元詡を生んだ。皇子を相次いで失っていた宣武帝は元詡を別宮で乳母に育てさせ、皇后も胡氏も抱くことができなかった。胡氏はその後も生きて位を進められたが、胡氏伝と本紀には宣武帝が旧制を廃したという記述が無い。魏書の皇后列伝の論は、この旧制は孝文帝が改めたとする。514年に高肇に十万の兵を与えて蜀を攻めさせた。515年の初めに病み、その三日後に式乾殿で没した。