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北魏(ほくぎ)(南北朝(なんほくちょう))第11代分裂期の王朝

後廃帝(こうはいてい)元朗(げんろう)

在位 531年10月31日〜532年6月6日(219日)

姓元(げん)諱朗(ろう)字仲哲(ちゅうてつ)別称安定王(あんていおう)

後廃帝元朗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 531年10月31日〜532年6月6日
在位 219日長さは365名中309位
没年
532年12月26日20歳(数え年)267名中長寿順235位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
推戴帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 孝武帝北魏孝武帝は後廃帝元朗の同族(遠縁)

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 巻十一 後廢帝紀/北史 巻五/資治通鑑 巻155
即位経路
魏書 巻十一 後廢帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

元朗(げんろう)は北魏(ほくぎ)の章武(しょうぶ)王元融(げんゆう)の第三子で、531年、信都(しんと)で兵を挙げた高歓(こうかん)に推されて位に即いた。高歓(こうかん)が爾(じ)朱氏(しゅし)を破ると翌年に位を退いて安定郡王となり、その年のうちに罪に問われて死んだ。

即位まで

元朗(げんろう)は字を仲哲(ちゅうてつ)といい、若くして明悟と称された。531年に冀州(きしゅう)の勃海(ぼっかい)太守(たいしゅ)となった。資治通鑑(しじつがん)によれば、主を立てなければ諸将が離散すると孫騰が説き、ためらっていた高歓(こうかん)も再三の請いを容れて元朗(げんろう)を帝に立てた。元朗(げんろう)は信都城(しんとじょう)の西で皇帝の位に即き、大赦して中興と改元(かいげん)し、高歓(こうかん)を丞相(じょうしょう)・大将軍(だいしょうぐん)とした。

治世と最期

高歓(こうかん)は反間で爾(じ)朱氏(しゅし)の諸将を互いに疑わせ、広阿(こうあ)で爾朱(じしゅ)兆を大いに破った。532年、高歓(こうかん)は鄴(ぎょう)を抜き、ついで韓陵(かんりょう)で爾朱(じしゅ)天光(てんこう)らを大破した。同じ年、元朗(げんろう)は河陽(かよう)の別邸で位を退き、平陽王(へいようおう)元(げん)脩(しゅう)が孝武帝(こうぶてい)として立った。魏書(ぎしょ)の出帝(しゅつてい)紀(き)は元朗(げんろう)が自ら疏遠(そえん)を理由に譲位を請うたとし、資治通鑑(しじつがん)は高歓(こうかん)の判断で元朗(げんろう)の名を借りた詔策(しょうさく)で禅位(ぜんい)させたと書く。退位ののち安定郡王に封ぜられたが、その年のうちに東海王元曄(とうかいおうげんよう)とともに事に坐(ざ)して死んだ。魏書(ぎしょ)は罪によって門下(もんか)外省(がいしょう)で死んだとし、北史(ほくし)は罪の語を欠き、資治通鑑(しじつがん)は殺されたと書く。

在位中の出来事(2件)

改元531年10月31日元号を「中興」とする
大赦531年10月31日

北魏の歴代皇帝

18名の一覧

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