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北魏(ほくぎ)(南北朝(なんほくちょう))第1代分裂期の王朝

道武帝(どうぶてい)拓跋(たくばつ)珪(けい)

在位 399年1月24日〜409年11月6日(10年289日)

姓拓跋(たくばつ)諱珪(けい)廟号太祖(たいそ)

道武帝の人物データ

生年
371年8月4日
在位
  • 399年1月24日〜409年11月6日
在位 10年289日長さは365名中125位
没年
409年11月6日39歳(数え年)267名中長寿順136位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 巻2 太祖紀/巻3 太宗紀
即位経路
魏書 巻2 太祖紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

離散した代の国を建て直して魏(ぎ)と号し、北魏(ほくぎ)の最初の皇帝となったが、晩年は薬の害で荒れて、子の清河王(せいがおう)紹に殺された人物である。

即位まで

代王(だいおう)昭(しょう)成帝(せいてい)の嫡孫(ちゃくそん)で、371年に参合陂(さんごうは)の北で生まれた。6歳のとき昭(しょう)成帝(せいてい)が没して苻堅(ふけん)の軍が入り込み、国の衆は散り散りになった。劉(りゅう)顕に命を狙われて賀蘭部(がらんぶ)へ逃れ、386年に牛川(ぎゅうせん)で代王(だいおう)の位に即き、同じ年のうちに魏王(ぎおう)と改めた。395年には参合陂(さんごうは)で後燕(こうえん)の慕容宝(ぼようほう)の軍を大破し、王公以下数千人を捕らえた。王建(おうけん)伝によれば、捕虜は帰そうとしたが王建(おうけん)の言い張りで穴埋めにされ、道武帝(どうぶてい)は後にこれを悔いた。398年に国号を魏(ぎ)と定めて平城(へいじょう)に都を移し、翌399年の初めに群臣の上書を三度退けたのちに皇帝となり、天興(てんこう)と改元(かいげん)した。

治世と最期

太子となる嗣の母の劉貴人(りゅうきじん)には死を賜い、漢の武帝(ぶてい)の例にならって外戚(がいせき)の乱を防ぐのだと嗣に告げた。魏書(ぎしょ)の皇后伝(こうごうでん)はこれを魏(ぎ)の故事による死とし、史臣(ししん)は魏(ぎ)の常制(じょうせい)となったと評した。晩年は寒食散(かんしょくさん)の害が重くなって喜怒が定まらず、朝臣の顔色や息づかいを疑っては自ら殴り殺し、死体を天安殿(てんあんでん)の前に並べた。409年、天安殿(てんあんでん)で没した。魏書(ぎしょ)の本紀(ほんぎ)はここで死に方を書かないが、清河王(せいがおう)紹伝によれば、母の賀夫人(ふじん)を幽閉されて殺されかけた紹が夜に宦者(かんじゃ)らと宮中へ押し入り、道武帝(どうぶてい)は弓刀を求めても得られないまま死んだ。跡を継いだ明元帝(めいげんてい)が城西に至ると衛士が紹を捕らえて送り、紹は母とともに死を賜った。

在位中の出来事(12件)

改元399年1月24日元号を「天興」とする
大赦399年1月24日天興元年十二月己丑、帝が天文殿に臨み太尉・司徒より璽綬を受け皇帝に即位。
親征399年3月〜399年5月高車(諸部落)
被反乱399年5月趙準の乱(仇儒・趙準)
被反乱399年6月〜399年7月傅世の乱
被反乱399年9月〜400年2月盧溥の乱
立后400年
親征402年〜403年後秦(姚興)
被反乱402年張翹の乱
改元404年元号を「天賜」とする
残り2件を表示
大赦404年
被反乱409年11月6日清河王紹の変

北魏の歴代皇帝

18名の一覧

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