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夏(か)・五胡(ごこ)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第3代分裂期の王朝

赫連定(かくれんてい)

在位 428年〜431年(2年364日)

姓赫連(かくれん)諱定(てい)幼名直獖(ちょくふん)

赫連定の人物データ

生年
不詳
在位
  • 428年〜431年
在位 2年364日長さは365名中224位
没年
432年5月13日
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
簒奪
先代
  • 赫連昌夏・五胡赫連定は赫連昌の弟
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
魏書/卷95
即位経路
魏書/卷95

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

赫連定(かくれんてい)は夏の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)の子で、兄の赫連昌(かくれんしょう)が北魏(ほくぎ)に捕らえられたのち、平涼(へいりょう)で即位した夏の最後の君主である。西秦(せいしん)を滅ぼしたのち、北涼(ほくりょう)の地を奪おうと黄河(こうが)を渡る途中で吐谷渾(とよくこん)に捕らえられ、北魏(ほくぎ)に送られて殺された。

即位まで

十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)は、赫連定(かくれんてい)を勃勃(ぼつぼつ)の第五子で凶暴無頼とし、413年に平原公(へいげんこう)に封じられて長安(ちょうあん)に鎮したと記す。428年、兄の赫連昌(かくれんしょう)が捕らえられると、残兵数万を集めて平涼(へいりょう)に戻り、皇帝に即位して勝光(しょうこう)と改元(かいげん)した。魏書(ぎしょ)の世祖(せいそ)紀(き)は、残衆(ざんしゅう)が赫連定(かくれんてい)を王に立てたと記している。

治世と最期

同じ年、平涼(へいりょう)まで追ってきた北魏(ほくぎ)の奚(けい)斤を隴山(ろうざん)の谷で挟み撃ちにし、奚(けい)斤らを捕らえた。宋書(そうじょ)は赫連定(かくれんてい)が奚(けい)斤を斬って兵を坑殺(こうさつ)したとするが、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は後魏書(こうぎしょ)に従ってこれを採らない。429年、赫連定(かくれんてい)は山に登って統万(とうまん)を望み、先帝が自分に大業(たいぎょう)を継がせていたらこうはならなかったと泣いた。430年には宋(そう)と結び、恒山(こうざん)を境に河北(かほく)を分け合う約を交わした。同じ年、太武帝(たいぶてい)が平涼(へいりょう)を攻めると、救援に来た赫連定(かくれんてい)は鶉觚原(じゅんこげん)で囲まれて大敗し、重傷を負って上邽(じょうけい)へ逃れ、翌年には平涼(へいりょう)も降った。431年、叔父に南安(なんあん)を攻めさせて西秦(せいしん)の乞伏(きっぷく)暮末(ぼまつ)を降し、暮末(ぼまつ)とその一族五百余人を殺した。同じ年、北魏(ほくぎ)を恐れて民十余万口を連れて黄河(こうが)を渡り、北涼(ほくりょう)の沮渠(そきょ)蒙遜(もうそん)の地を奪おうとしたが、渡河の半ばで吐谷渾(とよくこん)の騎兵に襲われて捕らえられた。432年、吐谷渾(とよくこん)の慕璝(ぼかい)が赫連定(かくれんてい)を北魏(ほくぎ)へ送り、太武帝(たいぶてい)は赫連定(かくれんてい)を殺した。

在位中の出来事(6件)

大赦428年承光4年(428年)、兄の赫連昌が北魏に敗れて捕らえられたあと、残兵数万を収めて平涼に拠り皇帝位に即いて境内へ殊死已下の赦を行った。
親征428年4月北魏(奚斤軍)
親征429年北魏(統万城)
親征430年北魏(隗歸・世祖親征軍)
親征431年7月北涼(沮渠蒙逊)
改元日付不詳元号を「勝光」とする

夏・五胡の歴代皇帝

3名の一覧

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