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夏(か)・五胡(ごこ)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第1代分裂期の王朝

武烈帝(ぶれつてい)赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)

在位 419年〜425年9月18日(6年248日)

姓赫連(かくれん)諱勃勃(ぼつぼつ)字屈孑(くっけつ)廟号世祖(せいそ)

武烈帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 419年〜425年9月18日
在位 6年248日長さは365名中164位
没年
425年9月18日
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 赫連昌夏・五胡赫連昌は武烈帝の子
目立つ記録
  • 親征5回(109名中10位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 卷一百三十 赫連勃勃載記/十六國春秋 夏錄
即位経路
晉書/卷130

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

匈奴(きょうど)の右賢王(うけんおう)去卑(きょひ)の子孫で、大夏(たいか)を建て、統万城(とうまんじょう)を都に長安(ちょうあん)まで手に入れた皇帝である。

即位まで

父の劉衛辰(りゅうえいしん)が北魏(ほくぎ)に殺されると叱干部(しっかんぶ)へ逃れ、後秦(こうしん)の高平公(こうへいこう)没奕于(ぼつえきう)に引き取られてその娘を妻にした。朔方(さくほう)に置かれると、後秦(こうしん)の姚興(ようこう)へ送られる馬を奪い、狩りと偽って義父の没奕于(ぼつえきう)を襲って配下を併せた。407年に天王・大単于(ぜんう)を名乗り、匈奴(きょうど)は夏の王朝の末裔(まつえい)だとして国号を大夏(たいか)とした。劉裕(りゅうゆう)が後秦(こうしん)を滅ぼして江南(こうなん)へ戻ったあと、長安(ちょうあん)の民は朱齢石(れいせき)を追い出して武烈帝(ぶれつてい)を迎え、武烈帝(ぶれつてい)は灞上(はじょう)に壇を築いて皇帝に即いた。

治世と最期

城に籠もらず騎兵で不意を突く戦い方をとり、嶺北(れいほく)の諸城は昼でも門を閉ざすようになった。都を築いて統万(とうまん)と名づけ、工事を監督した叱干(しつかん)阿利(あり)は、錐(きり)が1寸でも壁に入れば築いた者を殺して壁に塗り込めたと晋書(しんじょ)は記す。母方の劉(りゅう)姓を捨て、天につながるという意味で赫連(かくれん)氏を名乗った。晋書(しんじょ)の載記(さいき)は、にらんだ臣の目を潰し、笑った者の唇を裂き、諫(いさ)めた者は舌を切ってから斬ったと書く。北魏(ほくぎ)の魏書(ぎしょ)は名を屈孑(くっけつ)と書き、宋書(そうじょ)は佛佛(ぶつぶつ)と書く。晩年、太子の赫連璝(かくれんかい)を廃そうとして璝(かい)が兵を挙げ、子の赫連昌(かくれんしょう)が璝(かい)を討って太子になったと魏書(ぎしょ)と十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)は記す。死について晋書(しんじょ)・魏書(ぎしょ)・宋書(そうじょ)・資治通鑑(しじつがん)は425年に没したとだけ書き、死因を記さない。病に臥(ふ)して永安殿(えいあんでん)で群臣に後事を託したと書くのは十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)の輯補本(しゅうほぼん)で、この書は没年齢も記している。落雷で死んだという話は、確かめた正史(せいし)・資治通鑑(しじつがん)・十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)のどこにも見えない。

在位中の出来事(10件)

改元日付不詳元号を「昌武」とする
改元日付不詳元号を「真興」とする
大赦日付不詳
大赦日付不詳
親征日付不詳姚興(後秦)張佛生・齊難等(嶺北方面)
親征日付不詳姚興(後秦)三城・敕奇堡(王奚)・黄石固(金洛生)・我羅城(弥姐豪地)
親征日付不詳姚興(後秦)姚壽都(清水城)
親征日付不詳姚興(後秦)楊佛嵩・黨智隆(安定方面)
親征日付不詳姚興(後秦)姚逵(杏城)
被反乱日付不詳安定の反乱(胡儼・華韜の離反)

夏・五胡の歴代皇帝

3名の一覧

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