夏・五胡(五胡十六国)第1代分裂期の王朝
武烈帝赫連勃勃
在位 419年〜425年9月18日(6年248日)
姓赫連諱勃勃字屈孑廟号世祖
武烈帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 卷一百三十 赫連勃勃載記/十六國春秋 夏錄
- 即位経路
- 晉書/卷130
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
匈奴の右賢王去卑の子孫で、大夏を建て、統万城を都に長安まで手に入れた皇帝である。
即位まで
父の劉衛辰が北魏に殺されると叱干部へ逃れ、後秦の高平公没奕于に引き取られてその娘を妻にした。朔方に置かれると、後秦の姚興へ送られる馬を奪い、狩りと偽って義父の没奕于を襲って配下を併せた。407年に天王・大単于を名乗り、匈奴は夏の王朝の末裔だとして国号を大夏とした。劉裕が後秦を滅ぼして江南へ戻ったあと、長安の民は朱齢石を追い出して武烈帝を迎え、武烈帝は灞上に壇を築いて皇帝に即いた。
治世と最期
城に籠もらず騎兵で不意を突く戦い方をとり、嶺北の諸城は昼でも門を閉ざすようになった。都を築いて統万と名づけ、工事を監督した叱干阿利は、錐が1寸でも壁に入れば築いた者を殺して壁に塗り込めたと晋書は記す。母方の劉姓を捨て、天につながるという意味で赫連氏を名乗った。晋書の載記は、にらんだ臣の目を潰し、笑った者の唇を裂き、諫めた者は舌を切ってから斬ったと書く。北魏の魏書は名を屈孑と書き、宋書は佛佛と書く。晩年、太子の赫連璝を廃そうとして璝が兵を挙げ、子の赫連昌が璝を討って太子になったと魏書と十六国春秋は記す。死について晋書・魏書・宋書・資治通鑑は425年に没したとだけ書き、死因を記さない。病に臥して永安殿で群臣に後事を託したと書くのは十六国春秋の輯補本で、この書は没年齢も記している。落雷で死んだという話は、確かめた正史・資治通鑑・十六国春秋のどこにも見えない。
在位中の出来事(10件)
改元日付不詳元号を「昌武」とする
改元日付不詳元号を「真興」とする
大赦日付不詳
大赦日付不詳
親征日付不詳姚興(後秦)張佛生・齊難等(嶺北方面)
親征日付不詳姚興(後秦)三城・敕奇堡(王奚)・黄石固(金洛生)・我羅城(弥姐豪地)
親征日付不詳姚興(後秦)姚壽都(清水城)
親征日付不詳姚興(後秦)楊佛嵩・黨智隆(安定方面)
親征日付不詳姚興(後秦)姚逵(杏城)
被反乱日付不詳安定の反乱(胡儼・華韜の離反)
夏・五胡の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代武烈帝419–425年病死
- 第2代赫連昌425–428年処刑
- 第3代赫連定428–431年処刑
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